2003/6/8
今を去ること三年前の夏のことです。コペンハーゲンから北に電車で三十分ほど揺られていく場所にある、古い小さな町に滞在したときの話です。七月上旬ですから、もう真夏です。それなのに、手袋が欲しいと思うほど寒い日が、何日間かあったことが忘れられません。
そこに泊まることになったのは、ちょっとした偶然からです。ハイシーズンで街中の宿が取れなかったのです。その宿は、町外れの、開発中の新開地の一番奥にありました。当然のことながら、つまらない外観の今時の建物です。古い町並みが残っている歴史のある町です。それなのに私の宿は、郊外の新開地に一軒ぽつんと立つ現代的なホテル。たどり着いたときには正直、がっかりしました。
中に入ると、ロビーはもちろん、ホテル全体が、シーンと静まり返っています。チェックインを了えて部屋に行くまで、ほとんど人に出会いません。10階にある部屋は、やけに広く、インテリアは徹底した北欧モダンデザイン。すべてが直線とシンプルな曲線で構成され、ブルーを基調とする色彩で統一されています。ここまでモダンで徹底されると、その広さともあいまって、いささか殺風景です。新しいだけに設備は完璧ですが、ここに一人じゃ侘しいなあ、そう感じるほどでした。
ところが世の中、そう悪いことばかりじゃありません。この部屋には思いもかけず、素晴らしい贈り物が隠されていたのです。それは他でもない、部屋からの眺望です。眼下には、はるか地平線まで続く、深い緑の森の海が広がっていたのです。この眺望を見せるためでしょう、天井から床までの高さで窓が切られていて、窓全体が大きなスクリーンのようになっています。その大きな窓を一杯に開けると、クールで澄んだ森の空気が、静かに部屋を満たしていきます。
そこで見た、北の国の長い夕暮れの光景は、忘れることが出来ません。一日を了えて外出から戻ると毎日、沈み行く太陽と、逆光の中で黒く切り絵のように浮かび上がる、森の海を眺めて過ごしました。時間が止まっている、そう感じるほどに、静寂で神秘的な光景でした。なぜ神秘的だと感じるのか。 それは、この地の太陽の、特別な光のせいです。
ここでは夜の十時になっても、太陽が完全には沈まず、最後の夕陽とでもいうべき濃いオレンジ色の光は、黒い森の地平線から消えることがないのです。空気は澄み切っていて、その透明さの中を貫く光線の微妙な色合いが、不思議な静けさを湛えています。この景色を味わうだけでも、ここにいる意味がある、そう思いました。
滞在して数日目のことです。前の日に大きな団体が到着したらしく、それまでガランとしていた朝食の食堂が、突然の大混雑です。私はいつも朝が早いので、何とか席に座ることが出来ましたが、ちょっと後から来た人たちはもう、席探しが大変なほどの混みようです。
やがて私の席に、濃い褐色の皮膚に黒い髪、黒い瞳のでっぷりと太った大きな男の人がやってきました。一目でインド系の人だと分かります。四十歳代半ば、という感じでしょうか。見るからに値段の高そうな、おしゃれな、いいシャツをゆったりと着こなしています。「席空いてますか」と、私の向かいの席を見ながら聞いてきました。「どうぞどうぞ」であります。彼のトレイの上には、私の食べる量の優に倍はあろうかという分量のパンと料理、それにジュースとコーヒーが山盛りです。お互いに向き合って食事をしながら、いつしか会話が始まりました。
彼「どちらからですか。香港ですか。遊びですか、それとも仕事ですか。」
私「仕事と遊び半々です。東京からです。あなたは?」
彼「出張の途中です。でも、せっかくだから、この古い町を見物しようと思って、ちょっと息抜きです。ニューヨークからです。ところで、何のお仕事ですか?」
私「骨董銀器商です」
ここで彼の目の色が少し変わった、と私は感じました。というのも、彼が改めて私の顔を、その大きな黒い瞳でじっと、見つめ直しましたから。そして少しゆっくり目の口調で、こう言いました。
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