2004/09/15
もう、二十年近く前の夏のこと。京都大学の近くにある、板前割烹というか、「勝手割烹」とでもいうべき店での出来事だ。
友人と二人、板を前にする席に並んで座っていた。まだ夜の七時前で、お客は他に一組だけ。店の主人が手際よく料理を準備する様子を見ながら、「今日のおすすめ」をいく品か頼み、お酒のくるのを待っていた。
そこに新しいお客が入ってきて、私の左隣の席に、すっと座った。きれいな白髪の年配の男性で、座った途端に主人と話を始めた。何だか聞いたことのある声だと思い、左隣の様子をそれとなく窺ってみて、驚いた。
水上勉さんだった。なんといっても著名な方だし、子供の頃から新聞雑誌で拝見している、あの端正なお顔立ちだ。一目で「あっ、作家の水上勉だ」と気が付いた。お一人で、気軽な格好でいらした。店の主人とは親しいなじみらしく、うち解けていろいろな話をなさっていた。まるで、御自分の居間にでもいらっしゃるような、そんな、くつろいだ雰囲気だった。
有名人とはいえ、プライヴェートな時間を過ごしていらっしゃるわけだから、意識して、水上さんの方は見ないように努めた。素知らぬ顔で、友人と話を続けていたのだが、本当は、友人との話など、上の空だった。困ったことに友人は、私との話に夢中で、水上さんには、まったく気が付いていなかった。
ほどなく、燗を頼んだお酒が運ばれてきた。私が銚子に手を伸ばした、その瞬間だった。水上さんから声をかけられた。
「どちらからいらしたの?遊びですか。いいですね。ところでね、そのザルの中に、沢山ぐい呑みが入っているでしょ。僕の作ったものです。もしよかったら、使ってみませんか。お好きなのを一つ、手に取ってみて下さい。」
ずいぶんと丁重な言葉遣いで、そうおっしゃりながら、二十個ほどのぐい呑みが盛られた竹ザルを手にとって、私の前に置いて下さった。様々な色と形のものがある。幾つか取ってみて、一番手になじんだ、黒に近い泥褐色で小ぶりの杯を選んで、「これを使わせて頂きます」と申し上げた。
「うれしいな。その小さなやつね、それ、僕の故郷の土で作ったものです。若狭の土です。どうですか、わるくないでしょ。土そのものは決して、いい土じゃないんだけどね、ざらついていて。でも、それをたたいてたたいて、手を掛けてやると、そんな土でも、いつかね、こうして何とか、焼き物になる土になるんですよ。」
それから続けて、こうおっしゃっった。
「仕事場がそばにありましてね。ここには食事をしに、よく来ます。この主人が、なかなか面白い男でね。あっ、そうそう、杯の底をちょっと見て下さい。名前がひっかいてあるでしょ。私、ミズカミといいます。よろしく。」
「よろしく」だなんて、そんな。高名な作家の水上勉さんでいらっしゃること、よーく存じております。でも、これまでずっと、「ミナカミツトム」とお読みするのだと思っていました。先生の連載エッセイ、毎回拝読しております。「土に喰らう」愛読しています。こんな所でお会いできた上、声を掛けて頂くなんて、それだけでもう、夢のようです。もし宜しければ、握手とサイン、お願い致します。心の中では、そう言いたい思いで一杯だった。でも、当然のことだけれど、そういうことは一切、申し上げなかった。
あくまでも行きずりの、小料理屋の板の前でたまたま隣に座った客同士。一期一会。そう振る舞うべきなのだと、なぜかその時そう思ったのだ。そんな思いが伝わったのかどうか、わからない。水上さんは、ごく当然のことのように、銚子を手にして酒を注いで下さった。これは一生の思い出になる。そう思うと、杯を持つ手が震えた。
水上さんにお酌をして頂いた酒を味わいながら、「このさかずき、不思議と手になじむ感じがします」と申し上げた。その言葉にウソはなかった。てびねり、という言葉が似合う、わずかにひねりを効かせた形。「ざらついた」おもてが、手になじむ。適度に重みがあって、持ち心地がよく、口に当てたときに、気になるところがない。お酒が好きでいらっしゃる。直感的に、そう感じた。いわゆる陶芸作家の「作品」でも、つくり手が酒を楽しむ人でないと、いい酒器はできない。
やがて料理が来て、食べ物の話をあれこれ聞かせて頂いた。間近で拝見するご本人は、写真よりもずっと、端正な顔立ちでいらっしゃる。とりわけ、美しい瞳が印象的だった。この人は、ものすごく女性にもてるに違いない。やがて水上さんは、こんな話を始められた。
「ちょっと手を見せて下さい。ああ、いい手だな。あなた、焼き物をこねてみるつもりは、ありませんか。この若狭の土で。楽しいものですよ。実はね、僕はいま、骨壺を作るのに夢中です。そう、骨を入れる、あの骨壺。自分が入る最後の場所を、自分で作っています。あなた、東京ですね。箱根にね、Hさんという人がいらっしゃいます。この人がまた、焼き物が好きで。彼女のもとに僕が若狭の土を送っています。彼女から土を頒けてもらえばいい。どうですか、やってみませんか。やる気があるなら、いつでも、彼女に連絡をしておきますから。」
水上さんが骨壺造りに夢中だという話は、ある雑誌の連載で、ご本人がお書きなっていたのを読んで、知っていた。「箱根のHさん」というのは、名前を言えば誰でも知っているほどの、高名な女優さんだ。どうして、私のような、見ず知らずの若造にそこまで、と思った。
「お言葉だけ、ありがたく頂戴します。勤めもあって、なかなか時間も取れませんし。でも、いつかやってみたいと思います。」当時まだサラリーマンをしていた私は、そうお返事した。
「残念だな。いい手をしているのに。いつでもね、その気になったら、連絡下さい。」とおっしゃって下さった。
そんな話をしている間、時折、水上さんの所に他のお客さんが挨拶にやって来た。「○○の鈴木でございます。先生、次回また宜しくお願い致します。」「○○の田中でございます。ウチの□□がいつもお世話になっておりまして。」などなど、官営放送局や名だたる出版社や新聞社の、それなりの地位にありそうな人々が、入れ替わり立ち替わり、挨拶にやってくるのだ。これには、びっくりした。そのときごく自然に「御玉稿」という言葉が頭に浮かんだ。
そして、その時の水上さんの対応が印象的だった。決して、ぞんざい、ということではないけれど、どの方に対しても軽く会釈をなさる程度で、ご自分の方からは一切お話をなさらなかった。「僕はいま、この人と話しているの。じゃまして欲しくないな。せっかく息抜きに来ているのに。」明らかにそういう表情でいらした。相手は皆すぐにそれを察して去っていく。するとまた私の方を向いて、話を続けられるのだった。何だかまるで私が水上さんの客人であるかのような、そんな扱いをして下さるのだった。
大作家の気まぐれか、息抜きか。きっと、そんなところでいらしたのだと思う。三十分ほど、ご一緒させて頂いただろうか。店の奥の座敷に骨董屋から文机が届いたとかで、それを見るために席を立たれた。そのとき、たしか「じゃ、これで失礼します」とおっしゃったと思う。私は一言「楽しいひとときを、ありがとうございました」と申し上げた。
東京に戻ってから、水上さんのことを少し、調べてみた。『宇野浩二伝』という分厚い本を手に入れて読んでみた。以前から手許にあった『土を喰う日々』も、読み返してみた。そのほかにも、何冊か読ませて頂いて、作家は一つのテーマを書き続ける、ということを実感した。それらの作品に書かれた言葉は、あの京都の一夜の会話で語られた世界と、同じ根から出ている、と感じた。
水上さんというと、どうしても、生い立ちの苦労とか、文学修行の凄さ、ご自身の家庭のいろいろ、という部分に焦点が当てられることが多い。もちろん、そういう「辛い影」の部分を抜きにしては、水上文学の世界はあり得ないのだとは思う。しかし私は敢えて言ってみたい。水上さんは、おしゃれに遊び、どんな環境にあっても人生に楽しみをみつけることができた方だったのではないだろうかと。
故郷の土で焼き物を作る、竹を素材に紙を漉く、自分で育てた野菜で精進を料理する。いずれも、なかなか風流な遊びだと思われないだろうか。京都の割烹で、わずかな時間をご一緒させて頂いたに過ぎない。けれど、そのときの会話のやり取り、人との接し方、動作物腰、そのすべてにおいて、「オシャレな人」という印象が強く残った。
きっと「辛い時代」や「無頼の時代」を経て、山を越え谷を越え、その末に到達した「洗練」なのだろう。いわば、磨き上げられた石。自分自身でコツコツと、長い精進を続けて磨き上げた石、でいらしたのだと思う。
その水上勉さんが、亡くなられた。今はきっと、ご自身がお作りになった中で一番お気に入りの骨壺に入っていらっしゃることだろう。
おそらく、私のように名もない人々で優しいもてなしを受けた人々が、日本中に何人もいるに違いない。そうした皆さんと共に心から、水上さんのご冥福を祈りたい。そしていつか、水上さんのお墓を訪ねて花を手向けたい、と思う。
今回もまた、銀の話ができなかった。でも、なるべく自然体で「つぶやいて」いきたいと思う。多分次回は、銀の話を。
さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。
2004/09/15
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