2008/6/23
きのうスーパーで鯨のお刺身をみつけた。赤身がきれいで見るからにおいしそうだ。最近は店頭で見かけることも少ない。で、ひとパック買ってみた。かなり薄く削いだ刺身10きれほどで800円少々。安くはない。
渋谷の道玄坂下109のはす向かいに昔から「くじらや」という専門料理の店がある。子供の頃から数えれば思い出せないほどの回数、この店で食べている。だから鯨の味は十分に知っている。
きのう買ったお刺身は、これまで「くじらや」で食べてきたものよりも質が良かった。抜群に質のいいクジラのお刺身だということになる。とはいっても、すべて刺身で食べるのはいささか抵抗がある。ふた切れを残して軽く火を通し、レモンたっぷり絞りかけ、おしょうゆ少々に、これまたたっぷりの博多ネギの小口切りを添えにおろしショウガで食べてみた。文句なし。
久しぶりのクジラ肉、と書いてみて改めて思う、クジラは「肉」なのだと。これがイギリスに行くと「肉」でなくなる。英国はおそらく世界でも一番、反捕鯨の気運が強い。だから英国にいて捕鯨関連のニュースを見聞きするたびに、腹が立つ。針で指先をちくちくと刺されるような痛みを感じるのだ。
なぜなら、英国における捕鯨関連ニュースの非難対象はいつだって、我が日本国政府と日本国民そしてクジラを食べる日本文化だからだ。彼らの視点の根底に「捕鯨=野蛮で残忍残酷=日本人」というイメージが形成されている。BBCを筆頭に、この問題に関する報道でのバイアスの掛かりようは、大変なものだ。こうしたイメージが長年集積されてきた結果、「クジラ食べ民族=イヤな奴ら」という図柄が、しっかり形づくられてしまっていて、何とも腹立たしい。
あっ、話が固くなってきた、要注意。話を戻そう。おいしいクジラを食べて思い出した。今から十年ほど前にロンドンはケンジントンの、とあるレストランでの出来ごとを。その店は当時真っ盛りだったモダンブリティッシュという流行の一角を占めていて、グルメリストはもちろん、メディアでもよく紹介されるお洒落な店として頭角をあらわし始めていた。
ただこの店は、単なるオシャレではなく、他の店とはまるで違う「個性的な創作料理」を出すことで知られていた。それは一歩間違えば「下手もの」と思われるようなメニューが売りで、特にファッション&芸能系のセレブの来店が珍しくない店としても知られていた。
ミーハーな私はある日、その店に予約を入れて出かけてみた。評判通りヘンテコなメニューが並んでいる。その中から「カンガルーの肉」を素材としたお料理を選んで注文してみた。出てきたお料理は、シチューのようなものではなかったかと思う。ほんの僅かにけもの臭があり、しかし、比較的あっさりとした味わいだったと思う。まあ、食べてみれば、別に何がどうというほどのこともない味ということになる。少なくとも「食感」としては。
ただその時、カンガルーの肉を食べながら頭の中でぼんやりと、オーストラリアの荒れた大地を疾走するカンガルーの姿を思い浮かべていた。そしてお腹の袋に赤ちゃんを入れて育てる母カンガルーの姿を思い浮かべていた。「食感」はともかくとして、こうしたイメージを思い浮かべながらカンガルーのシチューを食べるというのも、なんとも奇妙な体験だった。
途中ワインのおかわりを持ってきたウェイターが興味津々で聞いてきた。「どうだった? 初めてだって言ってましたよね、カンガルー食べるのは。ウチの自慢料理のひとつなんですよ、どうですか感想は?」
私は時に不必要な場面で皮肉を言いたくなる天の邪鬼なところがある。先祖伝来のDNAだ。お口にチャックと分かっていながら、これを言ったらマズイと分かっていながら、誘惑に抗しきれず、不必要なひと言を口に出してしまう。
この時もそうだった。「クジラの肉によく似てるね。子供の時からクジラ食べてるけど、それによく似てると思ったよ。そういえば、メニューにクジラ出てないね。」
ウェイターは瞬時に顔色が変わり、ほんとうにビックリした様子で「オーマイゴーッド、ユーマスビー、アサヴェージ」(あんた野蛮人だ)と肩をすぼめ、眉間に深いしわを寄せながら私を睨んだ。で、私はひと言「ノー イッツァ ディファレン カルチャー」(そうじゃないよ、異文化なんだよ)と答えた。
クジラをめぐる摩擦は、間違いなく食の伝統をめぐる文化摩擦だ。困ったことに、歴史をたどれば文化摩擦は、深刻な紛争の原因になることが多い。宗教の違いがもたらす戦争の絶えることがないことを見れば明らかだ。
自分たちの愛するものを傷つけることを容認する異文化に接するとついつい「そういうことを平気でする人たちなんだ。許せない!」となる。人の心の奥深いところでモヤモヤとしながら、わだかまりが消えない。それだけに怖いわけで、いつしかこうした感情は強い蔑視へと結びついていく。
ところでオーストラリアの現首相は反捕鯨の急先鋒の一人であるらしい。想像だけれどこの人だって子供の頃からカンガルーを食べて育っているのではないか。何の違和感も感じないままに。もしそうであるならば、日本の首相はG8で彼にひと言伝えてみればいいのだ。
お宅の国では平気でカンガルーの肉を食べるのだそうですね。あなたは捕鯨を止めよとおっしゃる。ならば、おたくの国でもカンガルーの捕獲をお止めになったらどうですか。お互い異なる伝統文化があります。お腹の袋で子供を育てる母カンガルーの姿を思うと、あのカワイイ動物を食べるなんて、我々の目にはおよそ考えられないほど残酷野蛮な行為だと映ります。赤ちゃんカンガルーの肉の柔らかさがいいなんて、本当にそんなこと言うシェフがいるんですか。
果たして彼の国の首相は、どう、お答えになるだろうか。
もっとも、日本の領海の外で捕鯨は行われているわけで、この点は衝かれても仕方ない。日本の領海に限るということであれば、風圧は少しは弱まるかもしれない。伝統食文化の保全という点では、江戸時代以前の近海捕鯨に戻ればいいのだから。
また、純粋に外交的な利害判断から、全面捕鯨停止というのも、ありかもしれない。みんなで十分に話し合って、決めるのであれば、飽食の時代に無理してクジラ肉にこだわることもない。イスラエルが長い伝統のあるフォアグラの生産を実質的に停止したように、外交判断によって自国の伝統を見直すという苦渋の決断もまた、ひとつの道でありうることは間違いない。
いずれにしても、異郷の伝統文化に対しては、どれほど違和感を感じることであっても、一定の敬意を払う必要がある。だって、お互い様じゃないんですか、あれもこれも。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2008/6/23

■講座のご案内
2008年の講座は、これまでになく充実したものとなるはず。当の本人が、大いに乗って準備していますから。どうぞお楽しみに。
いろいろな場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。話の内容は様々ですが、基本テーマは一つです。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。
詳しくは→こちらへ。
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