2014/3/29
今回は、久しぶりに、銀のお話。6月1日(2014)の日曜日に、『バベットの晩餐会』の原作者カレン・ブリクセン男爵夫人の紡ぎだす幻想的な世界と、その出身地デンマークのお料理のお話をします。デンマークといえば、ヴァイキング(バイキング)です。あの一見静かな森と湖が一杯の北欧の国の祖先たちは、かなり荒っぽい人たちだったんですよねえ。「北欧デザイン」なんて、いったいどこの話かっていうくらい、荒々しく、勇猛果敢かつ獰猛で、そして、なによりも「銀こそ命」だったんですねえ。今なら「金出さねえとタダおかねえぞ!」というところが、ヴァイキングの場合「銀よこささねえと殺っちまうぞ!」だったのです。
「コラージ」2012年2月号に掲載されたオリジナル原稿に、加筆&加像しています。
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上の写真を見てください。コイン、首飾り、腕輪など、すべて銀を素材とする品々です。完品もありますけれど、ナイフでスパッと切断されたものも多い。実はこれ、ヴァイキングの首長たちの遺跡からの発掘品です。壺に入れられて、しっかりと封印され、その上で、地中に埋められたものです。

こうした銀器ザクザクの宝の壺が、今も欧州のあちこちから発見され続けています。いつ頃埋められたものかというと、そのほとんどが西暦850〜1100年頃。銀のコインから年代が判るんですね。
じゃあ、どこで見つかるのか。その発見場所はそのまま、かつてヴァイキングたちが侵攻していった場所の地図と重なります。九世紀中頃、彼らは突然炎の如く、あらゆる方向に向かって船で侵攻を開始する。寒風吹きすさぶ北の海の荒波をものともせず、小さな船を操って、海と川の続く限りどこまでも獲物を求めて進んでいく。まさに勇猛果敢。攻められる側からすれば、これほど恐ろしい集団もまず他にありません。
約二世紀半に渡って続くヴァイキングの侵攻。その爆発的なエネルギーは、一体何が産み出したものなのか。諸説紛々ですが、今日のお話が、その疑問を解くひとつのヒントになれば、と思います。

どんな船で攻めていったのかというと、一番一般的なもので、全長15〜18メートル、幅2.5メートルほど。20人ほどの漕ぎ手全員が力を合わせれば、陸地に船を揚げ、コロなどを使って原野を移動させることも可能な軽量船で、水深一メートルでも航行できる造りです。そんな船だと、あまり遠くには行けない、そう思いがちです。でも、そうじゃないんですね、これが。
今のデンマークから出発してアイスランドに基地を築いた一派は、大西洋を渡って北米東海岸、現在のアメリカ・カナダ国境付近に到達していたことが判明しています。また一方で、現在のスウェーデンから南へ下り、ロシアの河川に入り、ドニエプル川を下って、途中キエフの基礎を築き、更に南に下って黒海へ。この内海を南下して、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に到達し、ここでキリスト教の洗礼を受けて、再び出発地へと戻った一団もありました。
この「キエフ」というのは、このところ大問題になっている、ウクライナのキエフです。ここはロシアの歴史を語る時、極めて重要な場所で、ロシア人にとっての「飛鳥の里」に相当する土地です。我々が日本という国の成り立ちを考える時、誰しも「日本書紀」と「古事記」を頭に思い浮かべるはず。ロシア人にとってはこれが「過ぎ去りし日の物語」という美しいタイトルの建国神話です。その神話を歴史的に解釈しながら「ロシア」という国名の語源をたどっていくと、ヴァイキングに至ります。「ロシア」→「Russ」=「船を漕ぐ人」が語源だ、というのが定説です。そしてこの建国神話は、キエフという場所を抜きに、語ることはできません。
但し、「ロシア」=「船を漕ぐ人」語源説に対しては、スラブ系ロシア人の学者から強い反発があります。なぜかというと、この神話によれば、「打ち続く部族間の争いの解決を求めて」この「船を漕ぐ人たち」の許に使者を送って、「地域の皆からのお願いとして」「王様としてこの地域を治めてもらうことになった」と書かれているからです。ここで「地域の皆」とは、もともとこの地域に居住していたスラブ系の諸部族を意味し、「船を漕ぐ人」とは、いうまでもなく、現在の北欧三国を故郷とする「ヴァイキング」を意味する、というのが通説です。
要するに、スラブ系の人々からすれば、この神話は、元々よそ者であるヴァイキングたちがスラブ系を支配することを正当化する神話である、となってしまう。これは許せない、というわけです。
我が国も含めて、どこの国でも「建国神話の解釈」というのは、激烈な論争のタネになります。そして、その解釈は、その時々の政治状況を鏡のように反映します。民族意識とナショナリズムが複雑に交錯する現在のロシアそしてウクライナでは、『過ぎ去りし日々の物語』という美しい名で呼ばれる建国神話の解釈が、今ふたたび、大きな論争の種になり始めるのではないでしょうか。(注)

ところで、コペンハーゲンの博物館で、11世紀にヴァイキングによって、コンスタンティノープルからもたらされたという、エナメルで細密なキリスト像が描かれた、見事な金のペンダントトップを見たことがあります。ちょうど上の写真の品によく似たものです。当時のイスタンブールの工芸技術は素晴らしい水準だったんですね。その見事さに感心すると同時に、ほんとうに、あんな小さな船で、デンマークからイスタンブールまで行ったんだなあと、その長い道のりと苦難を思いながら、美しい小さなペンダントの世界に引き込まれていきました。

で、ヴァイキングになったつもりで、あれこれ想像力が広がり始める。河と湖を渡り、森の道は船を運び、はてしなく長い旅路の末にたどり着いた黒海を渡る。その先には、地中海と黒海を取り囲む様々な地域からやってくる無数の船舶が行き交うボスポラス海峡。そこに蜃気楼のように浮かぶ大都会。
海上から仰ぎ見れば海岸から背後の丘陵へと途切れることなく連なる家並み。ひときは目立つアヤソフィアの壮大な建築は、一歩中に入れば黄金色燦然たるモザイク画で覆われている。当時コンスタンティノープルは世界一の繁栄を謳歌していました。そこに北欧の果てから小船でたどり着いたヴァイキングたち。想像を絶する先進的な文化と遭遇し、おそらく非常な驚きを持ってキリスト教に帰依するに至ったのではないでしょうか。

何年か前に、モスクワからイスタンブールへと向かった時のことです。飛行機はモスクワを飛び立ってほぼ一直線に南へ。ウクライナの穀倉地帯上空を通過し、やがて黒海北岸に至り、そこから延々と海の上を飛行してイスタンブールに到着。「ああ、ヴァイキングたちがかつてたどった道筋の上空を飛んでいるんだ...」窓に顔をつけて地上の景色を見続けていた時の記憶が今も鮮明です。
で、銀器ザクザクの宝の壺です。これはいったい何を意味しているのか。発掘される銀のコインの多くは、驚くべきことに、イスラーム諸地域で造幣された銀貨なのです。銀貨の表面にコーランの文字であるアラビア文字が打刻され、これを読み解くことで造られたた年代と場所が判明する。

これら銀貨の造られた場所は驚くほど広範囲に渡っていて、中央アジアのサマルカンド(薩末鞬)やブハラ(安国)などという、シルクロードに連なる地名も出てきます。この頃イスラーム帝国は、広大な世界を支配していました。西は現在のスペインから、北アフリカ全域、東地中海から中東諸国、イランを経てアフガニスタン、パキスタン、インド東部に至るまで、コーランの言葉で互いに意思疎通が可能な、巨大な商業交易圏が成立しています。
一方で当時ヨーロッパはといえば、広大なイスラームの海に浮かぶ小さな島のような存在。科学技術から工芸文化さらには思想哲学まで、イスラーム圏にはるかに及ばない未開発な地域に過ぎません。
その圧倒的に先進的なイスラーム世界の経済を影で支えていたのが、他でもない、各地で造幣される銀貨だったのです。交易で使われる銀貨は、取引のたびに商人から商人へと手渡されて、果てしない旅を続けます。このこと「銀のつぶやき」第6回「銀と銀化と交易と」でお話しています。
ひたすら船を進めてヨーロッパの果てにまでたどり着いたヴァイキングは、そこでイスラーム圏のモノや商人たちと出会うことになります。具体的には、ヴォルガ河の河口付近など、黒海北岸から東岸にかけての一帯、そして大河沿いに点在した内陸の交易拠点などがその舞台です。
では、ヴァイキングたちはいったい、いかにして、大量の銀貨や貴金属の装飾品を手に入れたのか。編集部からの要望で、金銀のお話が続きます。では 次回 をお楽しみに。
(注)
大原さん、ロシアの歴史語る資格あるの? と思われるかもしれませんね。だいぶ前から少しずつですけれど、勉強してきました。面白いことがいろいろあったものですから。
今から7〜8年前のことです。ある大学の講座で、半年間に渡ってロシア史の講義を受ける機会がありました。このとき、受講者は、私ひとり! マンツーマンで教授と向かい合って、まるで家庭教師の先生と対面する要領です。夢のような贅沢でした。講座申込み後、事務局から「受講申込が大原さんお一人なものですから、開講されないかもしれません」と連絡がありました。その数日後、「先生がやって下さるそうですので、開講されます」との電話。驚きました。
こうして半年間、通算で16回くらいだったでしょうか、毎回90分きっちりマンツーマンで、ロシア史を勉強しました。K先生、今も心から感謝申し上げております。こういう形になると、もう、「教えて頂く」という感じではありません。大学のゼミの発表を毎週やるような感じで、こちらは予習をさぼるなんて、絶対にできません。とにかく、出来る限りの準備をして毎週教室に行っていました。
当然、大学時代の「授業」の、何倍もの密度になります。毎回、あるテキストをどう解釈するか、互いに意見を述べるという感じで。この会話を通して、互いに相手の知の地平線が見える瞬間がある。なかなかスリリングな一瞬ですけれどね。一対一の恐ろしいところです。時に、博士課程の女性の院生が同席することもありました。いずれにしても、いつだって真剣勝負。いやでも、身につきました、ロシア史の基礎。
そのとき、つくづく思いました。勉強をするのに年齢も何も関係ない。K先生が、受講生たった一人の講義をなさったのは、ご自身にとっても「勉強になる」からだとおっしゃっていました。この先生、大学教授になってから、日仏学院の春休みの集中コースで、若い学生に混じって、フランス語の基礎を学んだという方です。
以来ロシアの文化と歴史については、私なりに追いかけ続けています。だから、キエフとヴァイキングとスラブの関係についても、ひとこと触れてみたくなったりするわけなのですね。
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きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2014/3/29

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
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