2012/4/6
あと二ヶ月ちょっとで、私にとって3冊目となる著書が誕生します。『名画の食卓を読み解く』(大修館書店 2012年6月刊行予定)です。2年間24回に渡って月刊『英語教育』に連載された原稿を元に、大幅加筆の上で新たに一冊の単行本として刊行されるもの。とはいうものの、実はただいま現在、最後の仕上げに悪戦苦闘中です。
ところで、連載エッセイの中には、他とは傾向を異にする内容の回もあり、それについては刊行予定の本には収録されません。その中のひとつ(2010年12月号)をここに転載させて頂きます。
内容は、今から1年半ほど前にアメリカのオクラホマシティで私自身が行なったインタビュー。相手は「ベトナム難民」としてこの地にやってきた一人の女性。この時の印象は今も心の奥底にしっかりと刻まれています。ぜひ皆様にも読んで頂きたいと思い、ここに『英語教育』編集部の了解の下に転載させて頂く次第です。
『ボートピープルのアメリカ』
米国は移民の国。そこには「難民として故国を逃れて来た」という人々も少なからず存在しています。そんな特殊な状況で新天地に移住した人々にとって、アメリカでの食生活はどのようなものになるのか。それを知る貴重な一例として今回、オクラホマシティで小さな会社を経営する、リサ・チャウ(Lisa Chaw)さんにお話を伺いました。チャウさんは旧南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)ショロン地区出身の中国系ベトナム人。1979年13才の時に幼い弟と二人、いわゆる「ボートピープル」としてベトナムを脱出、「難民」として米国に永住を認められたという経歴の持ち主です。二児(9才と7才)の母親で御主人は台湾系中国人。
---ショロン地区の中華街のご出身とお聞きしました。子供時代の思い出に残る食べ物、何かありますか。
「伯母がショロンでかき氷の屋台をやってました。かき氷に甘く煮たお豆をのせたりして、上から色とりどりのシロップを掛けるんです。その伯母の隣でいつも、一人のおじさんがフォー*の屋台を出してました。これが抜群の味で。麺は米麺と蛋麺(卵入り麺)の2種類から選べて。麺とスープはもちろんですけれど、具がおいしくて。魚のつみれを小さく丸め、豆腐の間にこれを埋め込むように挟んで、油で揚げる。それを薄切りしたものがたっぷり入ったフォー。これが一番の思い出の味です。今は息子さんが後を継いで同じ場所でやってます。屋台から建物の中に出世していて、ベトナムに帰ったときには、必ずこの店に立ち寄ります。」
---アメリカ暮らし31年目でらっしゃいますね。それにお子さんは、こちら生まれ。となると日常の食事はアメリカ的なお料理が中心ですか?
「とんでもない。夫と二人の子供のある主婦ですから、朝晩必ず料理はします。よほど疲れた時でもない限り、夕食は毎日お料理3品とスープ、ほとんどが中華料理です。たまの外食の時には、イタリアンとかいろいろなレストランに行きます。子供たちはお寿司大好きですよ。」
---ちょっと辛い質問です。母国脱出からアメリカに到るまでの経緯をお話頂けますか。
「父は中華街の薬種商で働く漢方薬作りの職人でした。南ベトナム崩壊後、暮らしはどんどん状況が悪化し、例えば、台所の燃料はガスから炭へ、最後は薪になるという状況でした。しかも統一後ショロン地区の中国人には厳しい差別の目が注がれ始め、やがてこれが「排華」(中国人排斥)という流れになっていきます。将来を悲観した父は、一家の跡取りである弟を海外に出そうと決断、1979年かなりの大金を支払ってボートで海外脱出をさせる段取りに。その夜私は叔父と共に弟の見送りに行きました。搭乗者の名前が次々と呼ばれて乗船していく中、三回呼ばれても応答がない人がいたのです。女性名です。そのとき叔父が大きな声で「お前じゃないか、早く行きなさい」と背中を強く押したのです。あの時私の運命は決まりました。
30メートルに満たない小さな船に500人近い人々がすし詰め状態。港を出て三日目に、海賊に襲われ、多くの人が貴金属やお金を巻き上げられました。食べ物ですか? 水とビスケットくらいだったと思います。その後皆で、船がガタガタになるまで壊しました。一種の賭けでした。船が航行困難な状態でないと他の船に助けてもらえない。船長の判断です。私たちと同じ日に港を出たもう一隻は同じようにした結果、沈没。多くの人が亡くなったと聞きました。それから数日後、私たちの船は運良くタイの大きな船に助けられ、全員がその船でバンコクへ。そして私は遠い親戚がいるこのオクラホマまで難民として飛行機で運ばれてきました。13才で弟と二人ぼっち、英語なんて一言も出来ません。なのに連絡の行き違いで空港には出迎えがありませんでした。不安が爆発しそうになる中を何時間も何時間も空港で過ごしたあの日のことは、一生忘れません。」
---アメリカに来て最初に強く印象に残った食べ物はなんですか?
「ビッグマック! 冗談じゃなく本当です。当時私が養われていた遠い親戚の家では、ああしたものは食べちゃいけない、みたいな。でも、あるとき、食べる機会があったんです。わーっ美味しいって思いました。」
---チャウさんは、ご自身がショロンで育った家のお料理、伝統行事のご馳走などについて、お子さんたちにお話になる機会はありますか。
「もちろんです。例えば九月には、庭で月を眺めて月餅を楽しみます。そんな時には、お菓子の由来とお月様にまつわる伝説を子供に話します。お正月は一年で一番大切な行事。伝統的な正月料理も、出来る範囲でこのオクラホマでも作るようにしています。ちまき(粽子)を作ることもあります。アメリカという地にあって、私たちの伝統を次の世代につないで行くことはとても大切な事だと思っています。幸い多くの親族が近所に住むようになりましたから、毎週火曜日は必ず集まれる親戚が子供連れで順番にそれぞれの家に集まって一緒に食事をすることになっています。毎回20人近く集まりますね。親戚の絆は大切ですから。」

---オクラホマには全米でも有数のベトナム系中国人の社会があるとのこと。実際、立派な中華系スーパーが2つもあって、アジア系の食品が何でも揃っていますね。これなら、食材に困ることはなさそうですね?
「私が来た頃に比べれば、同胞の数が大幅に増えています。様々な店も充実してきて、何でも揃うようになりました。昔とは雲泥の差です。でも、ここが大切なんですけれど、食材の質となると話は別。私が子供時代に知っていたショロンには、到底及びません。」

---ご自身は何人だとお考えですか。ベトナム人それともアメリカ人?
「私は中国人です。私の生まれ育ったショロンの中華街では、中国語以外の言葉は話す必要がありませんでした。ベトナム語は学校で習って覚えた言葉です。今は確かにアメリカに住んでいますけれど、私は中国人です。」
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2012/4/6

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
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