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大原千晴

名画の食卓を読み解く

大修館書店

絵画に秘められた食の歴史

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シオング
「コラージ」9月号

卓上のきら星たち

連載27回

ムラノ島ビザンツの幻影

 

不定期連載『銀のつぶやき』
第131回 海亀のスープ、その2

 
 

2013/10/12 
 

  前回お話の続きです。

 

 ノルウェイの海辺の寒村。海も凍てつく、厳しく長い、冬。そのぶん短い夏の一瞬の陽光は、一層の輝きを放つ。そんな海岸沿いの集落にへばりつくようにして生きる人々にとって、おもちゃのような小さな教会が、心の絆をつなぐ大切な空間となっている。教会の牧師館では、牧師とその娘である双子の美人姉妹の三人が、質実な暮らしを営んでいる。「花のパリ」からたどり着いたバベットは、この牧師館で、女中として働き始めます。

 

 気候の厳しい北の海辺の集落での暮らしは、それまでバベットが知っていた都会暮らしとは、かけ離れた別世界。そこでバベットは日々、あたかも修道女のように、炊事洗濯掃除を一心にこなしていく。村人たちも、過去を秘したバベットを少しずつ受け入れてくれるようになっていく。

 

 やがて「花のパリ」が、遠い夢の出来事のように感じられるようになった頃バベットは、村で手に入る限られた食材を楽しむかのように、料理つくりに様々な工夫を凝らし始める。今、目の前にある素材で、どれだけの水準の料理をつくることが出来るか。限られた条件の中で、頭を絞り、手を動かす。気持ちが料理に向かっていく。バベットは実は、パリの一流レストランのシェフだったのです。

 

 自分自身が好きなこと、得意とする事を一生懸命に行うことで、壊れかかった人生を再生していく。作者カレン・ブリクセンは、物語を書くことで自分自身を取り戻していった作家本人の人生を、物語の主人公バベットに投影しているかのように感じられます。

 

 では、なぜバベットは、カバンひとつで「花のパリ」から、わずかなつてを頼って、この極北の海辺の寒村へとやって来ることになったのか。それは、パリ市内が、フランス人同士が戦う激烈な内戦の戦場となってしまったからです。

 

 1871年(明治4年)フランスは、当時日の出の勢いで勃興しつつあった隣国プロイセン王国(プロシア)(★注1と戦い、あっという間に、負けてしまいます(普仏戦争_★注2)。この負けいくさの結果、プロシア側の捕虜となったフランス兵は大変な数にのぼります。しかも、「花のパリ」が「田舎者ドイツ」ごときに、占領されてしまう。その65年前ナポレオンが大帝国を築き上げた、あの「栄光のフランス」を思えば、考えられないほどの転落ぶりで、パリは大混乱に陥ります。

 

 この惨めな事態の展開に激高したパリ市民は、時の政府の打倒を目指して動き始めます。そこに敗残兵としてボロボロになった男たちが続々と帰還してくる。彼らの心はすさみきっている。「すべては政府が悪い!」。帰還後、体制打倒をめざす政治集団に加わる者も後を絶たない。徐々に政治的な緊張が高まり、治安が悪化し始め、あちらこちらで不穏な動きが出始める。

 

 こうして1871年3月「パリ・コミューン」と呼ばれる武装闘争が始まります。やがてこの「反政府軍」は、街のあちこちにバリケードを築きながら、徐々にパリを制圧し始める。その勢いの強さに恐れをなしたフランス政府軍は、ついにパリを放棄して、ヴェルサイユへと逃れてく。革命です。

 この大混乱のパリに、プロイセンでの捕虜生活を終えて、やっとの思いで戻ってきた一人の料理人がいました。現代フランス料理の基礎を完成させ、大ホテルの厨房システムを革新することになる、オーギュスト・エスコフィエ(1846-1935)です。

 出征前にシェフを務めていた店「プティ・ムーランルージュ」に戻ろう。そう思って25歳のエスコフィエがたどり着いたパリは、革命の暴風雨が吹き荒れる内戦状態。「ここにいたら危ない!」動物的な勘でそう察知した彼は、革命軍に招集される直前、パリを脱出してヴェルサイユへ。そこで政府軍総司令官マクマオン元帥付のシェフ、セルヴィの下で、若き料理人として働き始めます。

 

 エスコフィエは人生の大切な局面で、優れた動物的な勘が働く人です。この時も、この勘の鋭さが彼の命を救います。なぜなら、パリ・コミューンは政府軍の反撃により瓦解し、わずか10日ほどの間に2万とも3万ともいわれる革命軍兵士が命を失うという終末を迎えることになるからです。歴史の転換点です。

 

 エスコフィエの写真をご覧ください。男の顔が履歴書だとするなら、この写真がすべてを語っている。その人生を見ていると、まさに「男のなかの男一匹」そう呼びたくなる稀有な存在です。

 普仏戦争の負け戦でエスコフィエは、軍馬の肉を食用にし、プロシア軍の捕虜となってからは、塩の欠乏からくる栄養失調もあって、収容所内に赤痢が蔓延するという惨状を生き抜いています。そうした生死背中合わせの状況下でも、苦労して食材を入手し、これを創意と工夫でおいしい料理に仕立て上げ、料理の力で気落ちしている捕虜仲間を勇気づける。この男のそばにいれば何とか生き延びられる、そんな気にさせる男だったという印象をうけます。

 

 こうした厳しい戦争体験を経てエスコフィエは、ますます根性のすわった男になっていく。後の成功の原点です。パリ・コミューン終結後は、軍役の合間の休日を利用して元の職場であるレストランの営業を再開させるという離れ業を演じ、その一方で所属も新たに、料理人として軍隊生活を続けます。

 ところで、バベットがシェフを務めていたという超高級レストラン「カフェ・アングレ」(カフェ英国亭)にしても、エスコフィエが再開した「プティ・ムーランルージュ」にしても、注目すべきはその客筋です。

 それはパリに集まっている諸外国の王族・貴族、外交官や軍人、政治家に超お金持ち、そういった層が顧客の中心層だった。ここがキーポイントです。当時からパリの高級レストランは、外国人が重要な顧客層を形成していたのです。

 

 たとえば「英国亭」という店が象徴するように、戦争前からパリで英国人は羽振りが良かった。当時のパリで、英国の上流階級の暮らしに対する憧れの強さは、驚くほどです。普仏戦争での敗戦、そして数万の死者を出したコミューンの内戦を経たパリで、優雅でお金に余裕のあるフランス人など、そうそういるわけもない。当時欧州一の国際都市パリで、英国人やプロシア人、そして東欧圏やバルカン諸国の貴族たちを中心とする「外国人」が高級レストランの顧客の中心となるのは、当然すぎるほど当然のことだったのです。

 

 「お客こそが店の個性を創り上げる」これは飲食業に限らずサービス業の大原則です。「フランス料理」という名称とは裏腹に、パリの高級レストラン料理は当初から、諸外国の要人たちの嗜好を重視する中で発展していった。その出だしからして、インターナショナルだった、ということです。

 

 今まであまり語られることのなかった、この点に注目すると、高級フランス料理の歴史の見え方が、従来とは大きく異なってくるはずです。エスコフィエがたどった、料理人として人生をつぶさに調べてみれば、その「国際性」は、より鮮明になります。彼が料理人として名声を博すことになる「リッツ・パリ」のサービスの基本は、英国貴族との接触を通じてロンドンで、彼が学び取ったものです。この基礎の上に立って、セザール・リッツと組んで、新しいスタイルをパリで花開かせたわけです。

 

 だから、エスコフィエも、英国伝来のグルメ料理である「海亀のスープ」いえ「海亀のヒレ、ソースアメリケーヌ」とか「同マデラ酒風味」なんてお料理を作ることになるわけです。映画『バベットの晩餐会』の原作者カレン・ブリクセン男爵夫人(1885-1962)は、こうした歴史背景を十二分に咀嚼した上で、この「海亀のスープ」という料理を登場させているように思われます。

 ところで、前回の終りの部分で、1789年のフランス革命前のパリに「高級レストラン」は存在しなかった、と書きました。当時のパリで「レストラン」(restaurant)という言葉が意味したものは、現在我々が思い浮かべる「レストラン」とは、まったくイメージが違うものでした。

 それは、主として病人や体の弱っている老人や子供などのために、滋養のあるスープを出す店のことだった、と言っていいと思います。この言葉の前半部分「レスト」とは、再び力を取り戻す、回復させる、という意味合いの言葉です(★注3。そんな、「スープ専門店」が、フランス革命の後、如何にして、現在我々が知る「高級レストラン」へと変身していくのか。とても興味深い歴史が秘められている、ひとつの大きなテーマです。またいつか、このあたりは、ゆっくりとお話する機会を作りたいと思います。

 

(以下、★注)

(★注1)プロイセンとは、現在のポーランドのバルト沿岸域にあった旧ドイツ騎士団領(ドイツ人中心の植民地)から発展した公国を中心として、19世紀末に急速に勃興しつつあった、ドイツ諸地域の領邦の連合国です。いま我々が「ドイツ」と呼ぶ国の原点となる連合国です。この「新興ドイツ」が、1871年に、大帝国フランスを打ち負かしてしまうのです。なお、この段階ではバヴァリア(ミュンヘン)を中心とする南ドイツは、この連合国には未だ参加していません。

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(★注2)この普仏戦争(プロイセン対フランス戦争)でプロイセンがフランスに勝利したことは、思いもかけない形で、我が日本にも重大な影響を及ぼすことになります。

 1871年といえば、明治4年です。西欧に範をとった新しい国造りを急ぐ新政府は、当時の欧州に多くの人材を派遣して、その情報収集に励みます。後に明治の元勲となり、新政府を動かしていくことになる中心人物たちは、まだ若く、ひたすら欧州の現在と日本の未来だけを見ていました。「これからはプロイセンの時代だ! フランスなんて、過去の栄光にすぎない!」そう思った若き日本のエリートたちは、やがて誕生する国家の基礎となる憲法の範を、プロイセンに求めることになります。

 こうして、大日本帝国憲法の成立には、当時欧州に誕生したばかりの新成国家プロイセンの憲法の諸要素が、大きく取り入れられる形になります。でもね、その少し前まで265年間に渡って、江戸幕府徳川様が治めていた国ですよ、日本は。それが、新しい国家の基礎となる憲法を創成するにあたって、まったく縁もゆかりもない、プロイセンなどという新興国の憲法を真似しようという発想。

 これ、今考えると、あまりに突拍子もないことだと思われませんか。文化も伝統も人間も、およそ何もかもが異なる西洋の、しかも、そこに誕生したばかりのプロイセンの憲法を取り入れる。誕生したばかりのアフリカの小国が、日本国憲法をマネするようなものです。およそ、実体が伴わない。青い目の金髪の西洋人が、着物を着て歌舞伎を演じるようなものです。

 憲法の創成というのは、本来、そういうものじゃないですよね。自国の伝統と文化(法文化を含めて)に基礎をおきながらも、どんな国を創り上げていくかというヴィジョンを激しくぶつけ合いながら、十分に国民の間で論議を尽くして、苦しみながら生み出していく。それが理想です。明治新政府は、その主人公たちも、若かった。未来へのヴィジョンしか眼中になかった。彼らは、自国の伝統と文化を、ほぼ完全に無視した。特に、265年間続いた江戸幕藩体制の下で花開いた文化と伝統を無視し、場合によってはこれを破壊した。当時の状況を見れば、仕方なかったのですけれどね。

 「文化と伝統の無視」という点において、いかに彼らが過激であったか。廃仏毀釈運動ひとつを考えても、その過激さが解ります。命をかけて江戸幕藩体制を打ち倒した人々ですから、当然ですけれどね。しかし、その過激な彼らが行なった、革命的な憲法制定行為は、2013年の今現在も、我々を呪縛し続けていると感じます。国民にとって「憲法とは、常に上から降ってくるものだ」という発想から逃れられない、という意味で。 →本文に戻る

 

(★注3)仏語"restaurant"という単語の語義の変遷については、フランスを代表する国語大辞典のひとつである、"Dictionnaire culturel en langue francaise"(Le Robert)第4巻(R/Z), pp.255-258 において、小さな文字でびっしり4頁に渡って詳しく解説されています。興味ある方はご参照下さい。この大辞典の凄みと、フランスにおける「レストラン」という言葉の存在の大きさを知ることが出来ます。

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 以上、ウェブマガジン「コラージ」2011年7月号に掲載されたものに加筆した内容となっています。

 「海亀」のお話、さらに次回へとつづきます。

 

    きょうのお話は、ここまで。

  面白いお話、出てこい。
    もっと早く、もっとたくさん。

2013/10/12

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
  主婦の友社     定価 \2,100-

  イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝

  

  

ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。

本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。

私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内

 2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。

「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。

 歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。

詳しくは→こちらへ。