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不定期連載『銀のつぶやき』
第14回「トロイオンスとシャンパーニュ」









2004/09/25

■金銀相場はオンスが基準


少し前のことになる。
日本経済新聞(2004年8月21日夕刊)に、
次のような記事が出ていた。

インフレ懸念、金相場が高値――ロンドン、4カ月ぶり。

【ロンドン=佐藤大和】金相場が上昇している。現物取引の中心であるロンドン市場で二十日、一トロイオンス四一三ドル台に値上がりし、四カ月ぶりに高値を付けた。原油相場の高騰に伴い、世界的なインフレ懸念が台頭してきたためで、貴金属市場に投資資金が集まりやすくなっている。銀相場も同日、節目となる一トロイオンス七ドルに接近、四月以来の水準に上昇した。

■トロイオンスとは何?

上の記事には、「トロイオンス」(Troy-ounce)という言葉が二回、出てくる。金や銀の相場価格を表示するときには昔から、この単位を基準として、価格を表示することになっている。

日本で常用される「グラム当たり幾ら」という表示は、少なくとも英語圏では、まず使用されることがない。英国のアンティークシルバーのオークション。カタログには銀器の重さが表示されるのが普通だけれど、これも当然、オンスで表示される。

それにしても、単なる「オンス」ではなく、頭に「トロイ」という言葉がのっている。トロイオンス---不思議な言葉だ。一体これは何なのか。

実は、この言葉には、興味深い歴史が隠されている。その語源をたどっていくと、中世ヨーロッパの、交易の歴史が見えてくる。冒険商人たちの姿が見えてくる。銀貨を数える両替商の姿が見えてくる。面白い由来のある言葉なのだ。

銀の重さを表す単位「トロイオンス」。どのような背景から、この呼び名が誕生したのか。今回の「つぶやき」は、その歴史をたどってみたい。

「トロイオンス」という語は辞書では、"Troy-ounce"と綴られる。読んで字のごとく、前半の"Troy"(トロイ)と、後半の"ounce"(オンス)、二つの語をつなぎ合わせた言葉だ。

「オンス」なら、聞いたことがある。複数形を「OZ」と略して表記する例のやつ。という人は、香水の好きな人だろう。香水の容量を示す言葉として、箱の裏に、何OZと書かれている。でも、金銀相場のオンスと何の関係があるのか。

そう、この「オンス」という質量単位は、なかなかの「くせ者」なのだ。それは、いつも麝香の香りをほのかに漂わせる、妖しい魅力に包まれた「オンナ」に、似ているような気がする。

では、この「オンナ」ではなく、「オンス」という言葉、一体どこが「くせ者」なのか。

この言葉は、それが使われる対象によって、その表す質量の種類が変化するのだ。例えば、香水のような液体に使われる場合には、「液体の容積」を表す。

その一方で、「トロイオンス」として、金や銀などの貴金属に使われる場合には、「貴金属の重量=重さ」を示す。

片や「容積」、片や「重さ」。同じ言葉が、相手に応じて、まるで違った意味へと豹変する。困ったことに、どちらも計量単位であるところから、混乱が生じる。事情を知らない人は、ワケがわからなくなる。私も昔、これで泣かされたことがある。

「相手に応じて、豹変する。そして混乱を生じさせる。それでも、魅力でひきつける。」やはり、誰かに、似ている。私も昔、これで泣かされたことが.....。

オンスについては、そしてオンナについても、まだまだ説明があるのだけれど、話が複雑になるので、これ以上詳しい話は、しない。君子危うきに近寄らず。ここでは、あくまでも、銀の重量単位としての「トロイオンス」に的を絞ろう。

「1トロイオンス=約31グラム」

ここでは「オンス」は、重さを表す言葉。そう憶えておいて頂きたい。

大きな秘密は、「トロイ」(Troy)に隠されている。「トロイ」とは一体何か。

古くからある言葉で「トロイ」と言えば、「トロイの木馬」に決まっている。その通り。このトロイオンスという言葉には、はるか古代ミケーネの時代に源を発する古い歴史がある。「トロイの秘宝」として知られ、なぜかイランのパーレビ元国王の子孫がチューリッヒで秘蔵するとの噂が絶えない、トロイ神殿の銀器。この神殿銀器の重量を量るときにだけ使われた特別なハカリ、その分銅一個分の重さに由来する言葉なのだ。トロイでは満月の夜が来ると、神官達が神殿に聖なる火を捧げた。その火をともすための油を入れた、銀の小皿の重さが元になっている、という説もある。などというのは、冗談も八百八町だ。それにしても、ネット上には、「銀の歴史」などと称して、この手の「ロマンティックなお話」が山ほど出ている。事実と想像の峻別。ご用心のほどを。



■シャンパーニュの大市


「トロイ」というのは、フランスの地名だ。パリから東南へ約150km、発泡酒シャンパンの故郷シャンパーニュ地方にある古都、トロワのことだ。

現地フランスでは、"Troyes" と綴って、トロワ(トゥロワ)と読む。これが英国に伝わる頃には、最後の"es"が消えて、"Troy" となり、そのまま英語読みした音が、トロイ(トゥロイ)。


では、どうして、シャンパーニュ地方の町の名が、貴金属の重さを表す単位として、名を残すことになったのか。

話は、十一世紀末〜十二世紀にさかのぼる。トロワの町を治めるシャンパーニュ伯家は、領地の経営に優れた家だった。如何にして豊かな領地にすべきか。その方策の一つとして、領内で自然に発展してきた市(市場)を、保護育成してきた。金(きん)の卵を大切に育てた、ということになる。

元々この一帯は、セーヌ川の支流でパリと結ばれ、南のブルゴーニュと北のフランドルを結ぶ交通の要衝で、市場が発展するための条件が整っていた。当然おいしい食べ物も手に入ったはずで、パリに向かう街道は、チーズで有名なブリーを通る。


その反対に、ブルゴーニュに向かう道を南東へ約150キロ進むと、マスタードと美食のディジョンに達する。そこから先ボーヌまでの40キロ弱の道筋は、シャンベルタンを筆頭に、ぶどう酒好きなら「ここで死ねるならば本望」と思える場所だろう。


もっとも、街道沿いに次々と現れる著名なカーヴが、こんなに古い時代からあったものかどうか。また、ブリーチーズやディジョンマスタードにしても、中世から「名産品」として名を馳せていたとは、ちょっと思えない。少なくとも、発泡する白のシャンパンがシャンパーニュの特産となるのは、これから五百年も後の話だ。

そうは言っても、この一帯が、豊かな地域を結ぶ要衝にあったことは、間違いない。だからこそ、市場が育ち、それを更に発展させようと、歴代の伯家の当主も努力をしたのだろう。やがて、その努力がみのり、シャンパーニュの市場は、十三世紀に入ると大きく、花開くことになる。

ところで、ディジョンのマスタードといえば、これは鮮度が関係しているのか、フランスで一瓶百円のものを食べると、おいしさに唖然とさせられる。なにも、パリのマドレーヌ広場にある店の量り売りを試すまでもなく、モノプリ(ダイエー?)の百円で十分すぎるほどおいしい。

マスタードとオリーヴそれにヴィネガーあたりは、今もこの大東京でさえ、適度な価格でちゃんとしたモノを入手することが困難で、ユニクロの柳井さんや、楽天の三木谷さんのような人たちに、食品輸入の分野で革命を起こしてもらいたいと願うばかりだ。これには「戦争」が必要で、既存の輸入食品流通の構造を打ち破ろうというくらいの、気概と胆力がないと、やれないような気がする。

それが証拠に、「食べ物がまずい」と名高かったロンドンが、この二十五年で、東京をとっくに越えてる「グルメの都市」に変身したのも、EUという政治制度が背景にあることは間違いない。実際、そこに到達するまでには英国でも、様々な「戦い」があった。それがどんな戦いかと言えば、要するに、規制緩和に伴う、既成利得権を持つ側からの猛烈な反対運動との「戦争」だ。おいしいものを食べるには、政治の力だって大いに必要なのだ。ああ、話が大脱線した。元に戻ろう。再び十二世紀のシャンパーニュへ。


というわけで、伯家が目標にしたのは、市場に集まる商人たちだった。それも、自分の領地の小商人ではない。広くヨーロッパ全体を市場とするような大商人たち。彼らが一同に会する「国際的」な「大市」を、シャンパーニュで開く。そして、その市での取引に、税金を課す。それにより、大きな「税収」を確保する。伯家は、それをめざした。

既にシャンパーニュで育っていた市場を基礎として、全欧州を巻き込む「国際大市」を成立させたい。そのためには、各地からやって来る商人の、道中の安全確保を初めとして、他の欧州諸侯の協力が、絶対に必要だった。

中世の商人にとって、旅はいつでも身の危険が一杯で、「冒険商人」という表現は、単なる言葉の綾ではなかった。山賊や追いはぎは当然として、各地の領主が交通の要所に作る「関所」で、積み荷を差し出す羽目になることも珍しくなかったようだ。だからこそ、諸侯の領地を安全に通行できる保証、それが遠隔地から大商人を呼び寄せる、大きな要素となった。

そのため伯家では、持てる政治力を駆使して、諸侯からの協力を得ることに心を砕いた。やがて、こうした政治的な努力が実を結び、ここシャンパーニュに、中世屈指の「国際大市」が誕生することになる。

商人の心をよく知り、経済の原理に目が行き届き、その上、交渉能力に優れた領主。新しい時代の到来を予感させるシャンパーニュ伯家は、時のフランス王家を凌駕するほどの力を蓄えていくことになる。

というよりも、この時代にはまだ、パリとその周辺を押さえていたに過ぎないカペー家は、「魔法の手の力」は別として、政治勢力としての力量という点で、これを「フランス王家」と呼んでいいものかどうか。要するに、各地で強い領主同士が競っていた時代だと考えたほうが、シャンパーニュ伯家の動きも理解しやすい。

   トロワの街並

 

   この町は十六世紀以降、帽子用のリボン作りから発して、様々な衣料装飾小物生産の一大産地となる。また、十八世紀からは、この地方の印刷業の中心となっていく。

   

このようにトロワは、近世にもそれなりに栄えたため、大市で繁栄した当時の「真に古い中世の建築物」は、あまり残っていないようだ。これは、観光客にとっては残念だけれど、住民にとっては、むしろ幸せなことだと思う。   

   中世の城壁に囲まれた古い町で、活気のある産業が生まれれば、古い建物は壊されて建て替えられるのが当然だ。今日まで十三世紀の建物の遺構が数多く残る「美しい中世の町」などというのは、その意味では、近世の経済発展から完全に取り残されて、長い間「死んだ町」であったわけで、第二次世界大戦後の観光ブームで「生き返った」という所が少なくない。

 


■ヴェニスの商人

当時西欧で、こうした「国際取引」を動かすことが出来たのは、なんといっても、イタリア商人たちだ。とりわけ、対ビザンティン、対イスラムの交易で、大きな飛躍を遂げつつあった、ヴェネチア商人の存在が大きい。他に、ジェノバ、ピサ、フィレンツェなどなども無視できないけれど、なんと言ってもヴェネチア商人すなわち、ヴェニスの商人の存在が飛び抜けていた。

その一方で、バルト海から北海に掛けての地域の交易は、今のドイツと北欧地域を中心とするハンザ諸都市の連合体が、しっかりと独占し始めていた。彼らの力も、あなどれない。当時ロンドンでは、今のロンドン塔のすぐそばに、ハンザの大きな商館があったことが知られている。ハンザ商人達は、イギリスにウール(羊毛)を買いに集まった。英国の銀の歴史を考えるとき、ここは、見逃せない重要なポイントだ。いつかまた、このことについては、お話ししたい。



北の海を行く、ハンザの貿易船コッゲ船

その他には、ようやく勃興し始めた、南ドイツ諸都市の商人達も見過ごせない。彼らは、やがて、欧州における銀の流れに大きな変化を生み出す、隠れた勢力の一つへと成長していく。さらに、その彼らと同じ土俵で戦うことも多かった、ジェノヴァ商人の存在を忘れることはできない。こちらは、ポルトガルやイスラムスペインとの取引仲介という興味深い仕事を通して、地中海西部から大西洋へと、新たな交易路を開拓し始めていた。

こうした様々な大商人達が、欧州各地から、このトロワの大市に参集した。シャンパーニュ伯領の大市は、トロワの他に三都市。一年中、どこかの町で「大市」が開かれている、といっていい状況だった。これらを総称して「シャンパーニュの大市」(Les grandes Foires de Champagne)と呼んでいる。その代表がトロワの大市なのだ。

 本当は、この市で売り買いされたモノのリストを挙げたいところだけれど、そんなことをしていたのでは、話が長くなって、キリがない。ここでは銀に関連する、興味深い事実を二つだけ、お話しておきたい。

 十二世紀後半から大市には、ドイツからの銀が、相当量流入し始める。当時新たに開発されたフライブルク(マイセン)の銀山から採掘された銀だ。マイセン辺境伯ウェッテイン家にとっては、この銀が富の源泉となっていく。

 一方シャンパーニュでは、市場の繁栄により蓄積された銀で、十二世紀後半から十三世紀前半にかけて、新たに銀貨が発行される。この銀貨は、トロワと並んで大市の開催地であるプロヴァン(Provin)で作られたので、プロヴァノワ(Provinois)と呼ばれた(Peter Spufford, "Power and Profit" 2003.,  同"Money and its use in medieval Europe"1988)。

 プロヴァノワ銀貨は、シャンパーニュの大市の基準通貨となっただけでなく、東部フランス全域で流通し、更には遠くローマに至る地域にまで、通貨として通用したという。一種の国際通貨となったわけだ。信用の確立した銀貨は古くから、野越え山越え、はるか数千キロでも旅をした。「銀のつぶやき」第6回「銀と銀貨と交易と」で触れたとおりだ。

 この銀に関する二つの話は、銀と市場(いちば)の関係を考える上で、とても興味深い。ローカルな市から、国際的な大市へ。跳躍の原動力は、銀が与えてくれたように見えるからだ。

 果たして、銀にそんな力があったのかどうか。そして、「銀」を「貨幣」という言葉に置き換えてみると、どうなるのか。ここは、シャイロックの答えを聞いてみたいところだ。

 ここでどうしても、シャイロックの答えを知りたいという人は、岩井克人さんとか今村仁司さんとか黒田明伸さん、さらには、J.R.ヒックスさんやK.ポランニーさん、W.ゾンバルトさんとかA.スミスさんの本を読んで、答えを探してみるといいかもしれない。お金のこととなると、こうした「堅い論考」も、面白く読むことができるから、不思議というか、ゲンキンというか。私はヴェーバーを読むことで、初めて、その面白さを知った。それ以降、欲につられて、上記の先生たちの本を興味深く読んできた。でもまだ修行が足りないから、肝心の金貨が手元に集まらないままだ。

シャイロックというと、昔からこんなイメージ。でも、最近は、歴史学の分野でも、シェイクスピアの舞台でも、このイメージを大胆に打ち破る解釈が生まれつつあって、とても興味深い。映画ではアル・パチーノの演技が大注目だ。

 

ところで、この大市を実際に仕切った主役は、誰か。大量に銀を持ち込んだドイツ商人だろうか。そうではない。他ならぬ、ヴェネチア商人達だった。

それは、彼らの取引の規模の大きさと、遠隔地貿易の過程でつちかわれた、進んだ金融ノウハウの力によるところが大きい。当時彼らは既に、国際的な為替手形に相当するシステムを使いこなしていた。大市の一番の眼目は、これを利用した「大きな国際取引」だった。

銀や金という、重量のある「お金の現物」を動かすことなく、証書一枚、帳簿一冊で大きな取引をする。これが当時、どれほど先進的なものであったことか。

二十一世紀の今日でも、ドル札(=お金の現物)を大量に腹巻きに巻いていたため、ホノルルの税関で別室に通されるという、困った人達の話がニュースになるくらいだ。七百年前のトロワで、ヴェネチア商人達が手がけた為替手形業務は、当時の素人から見れば、魔法のような専門技術に見えたに違いない。

憧れのヴェネツィア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■「大市の共通基準」としての、トロイオンス

このようにトロワの大市では、取引の決済手段として、為替手形を除けば、銀を中心とする貴金属が使われていた。とりわけ、欧州各地域の商人が持ち込む、多種類の銀と銀貨を見分けることは、商人にとって、極めて重要なことだった。これを瞬時に見抜く力を持つ、特別な商人、それが「両替商」だ。彼らはやがて、こうした大市の主役へと成長していく。

そして、彼らの姿はそのまま、当時の様々な肖像画に面影をとどめている。貴族以外で、絵画にその肖像が描かれるというのは当時、例外的な出来事だ。それを思うと、この新たに勃興してきた「両替商」たちが、如何に社会的に大きな力を確保し始めていたか、ということが想像できる。

キリスト教の理想からは、あまり喜ばしくないとされた「金勘定」をする両替商の夫婦。大きな「金力&銀力」を持つが故に彼らは、社会からやっかまれたり、侮蔑されたり。しかし、見方を変えれば彼らこそ、新しい貨幣経済の誕生を告げる象徴的な存在であったといえそうだ。

それはそれとして、異なる文化背景を持つ、多様な商人同士が取引をするには、共通した基準が必要だ。商品の重さや、大きさを表現する単位として、互いに理解できる共通基準がなければ、商取引ができない。とりわけ、その決済に使う「お金」の単位が決まっていなければ、お互いに不便で仕方がない。

こうした背景から誕生した様々な共通基準の中で、特に、銀や金の重量を示す基準として採用されたのが「トロイオンス」というわけだ。

今からおよそ七百年ほど前に、フランスのシャンパーニュの大市をきっかけとして生まれた重量の基準、それが「トロイオンス」ということになる。

細かいことで恐縮だけれど、実際に当時、トロワで基準単位となったのが、この約31グラムという重さであったかどうかについては、まだ調べていない。でも、いろいろな背景から考えると、この約31グラムが基準であった可能性は高いと思う。

というのも、グラムで表現すると中途半端なこの数字も、ある小さな単位を基準にして、十進法、十二進法、十六進法、二十進法などが混ざり合って構成されていた古い計量システムに従うと、中途半端でも何でもない数字となるからだ。

これは、英国の銀の基準である「スターリングシルバー」の品位「一千分の九百二十五」という数字が、我々の目には「中途半端な数字」と映ることと、まったく同じ背景に基づく。昔のことを見るには、昔の人の目を借りる必要がある。

「銀の歴史」をたどっていると、いろいろな歴史に出会うことになる。面白い面白いと読んでいくうちに、いつしか、広い世界へと船出している。今回のお話などは、そのいい例だと思う。

今回もまた、長い話になってしいました。こんな話が「面白い」と思われた方は、是非、私の講座においで下さい。講座では、もっとわかりやすく、もっと楽しく話を展開しています。

さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。

2004/09/25