2006/3/05
よく買い物に行くスーパーがある。もともと酒屋から出発した店で、酒類が充実していることで知られている。とくに、世田谷代田にある本店のワイン館といえば、ちょっとしたワイン好きなら「あそこは凄いよね」と答えが返ってくるほど「知る人ぞ知る」店だ。
ここはスコッチのシングルモルトやブランデーの品揃えなら東京でも有数の店の一つだと思う。冗談抜きで、ロンドンのちゃちな専門店では、ことウィスキーに関しては、この店にかなわない。十年ほど前からワインにも力を入れ始め、これもまた、半端な品揃えではない。銀座にも業販中心の酒類専門の支店を構える、本格的な店だ。
ブルゴーニュだかボルドーだか南仏だったか忘れたが、この店が契約するワイナリーがあって、そこからダイレクトに仕入れることもやっているほどで、社長の気の入れようは半端じゃない店なのだ。
当然店員にはソムリエが何人もいて、ときどき売り場に臨時バーをしつらえたりしている。たとえば生牡蠣(カキ)にブルゴーニュの白とかシャンパンなどを有料で飲ませるオイスターバーの真似事をやったりしっているのだ。また、この店のソムリエ諸君は、フランスやカリフォルニアのワイナリーに研修旅行をさせてもらったりしていて、彼らのモラール(やる気)は高いと見ていい。
これは、その店のちょっと小さめの、ある支店で、この週末(3月4日夕刻)に起きた出来事だ。
例によってソムリエが前に立ち、木樽の上にイタリアワインの赤白数種類並べて、おつまみ類を少し用意して、有料のミニワインバーをやっていた。私はその脇で、週末に飲むワインを選んでいた。そこに、爺と婆、それに娘夫婦と孫という五人連れがやってきた。
爺は孫娘を抱いていて楽しそうだ。やがて一行は、ミニバーの前で立ち止まった。まず、婆がソムリエに話しかけた。「試飲させてるのね。ちょっと試してみようかしら。」
ソムリエ氏は微笑みながら、「試飲じゃなくて奥様、有料のスタンドバーなんです。でも、お安いものです。一杯如何ですか?」
婆 「えっ、有料なの。試飲じゃないのね。じゃ、いいわ。なら、それ一本幾らなの?1680円。結構するわねえ。この人(爺の方を見ながら)ワインにはちょっとうるさいのよ。ねえ、あなた。」
爺 「いや、まあな」と言って、ズラリ天井までワインが並ぶ棚の方を見やる。何となく眺めているだけで、ちゃんと何かを探しているという感じではない。
婆 「今夜のワインに何かいいのを頂いていきましょうよ。皆で飲むんだし。ほら、何だっけ、いつもおいしいって言っているアレ。」
爺 「そうだな。」おもむろにソムリエ氏の方を向いてひとこと「トカチワインは置いてるの?」
この一瞬私の耳はダンボになった。周囲にいた他の客も、この一言を聞き逃さなかったはずだ。皆がそちらの方を見たのだから。「トカチワイン」。トンカチでもなければトカイでもない。十勝である。なつかしい言葉だ。たしかに三十年ほど前に、ちょっとしたブームがあった。ただ私はこの店で、十勝ワインという言葉をこれまで一度も目にしたこともないし、耳にしたこともない。
遠くから車でこの店にワインを買いに来る客も少なくない。箱詰めを駐車場まで運ばせる光景も見られる店なのだ。私は吹き出したくなるオカシサをこらえるために、ぐっと唇を噛んだ。そして、ソムリエ氏の表情をうかがった。はたして彼氏、一体どう答えるのだろうか。
お客様は神様である。「ワインにはちょっとうるさい」爺が「トカチ」と言えば、「十勝」なのである。これが「トカイ」であれば、ソムリエ氏は喜び勇んで、講釈も五分間は立て板に水となるはずである。しかし、ここはまちがいなく「十勝」なのだ。ソムリエ氏は困ったような笑みを浮かべながら、こう答えた。
「お客様、申し訳ありません。国産ワインは明日、甲州ワインが二種類入荷する予定でございます。残念ながら十勝ワインについては、お取り扱いがございませんのです。」
爺 「あっ、ないのね。やっぱりね。置いてる店が限られてるって聞いてるからね。なかなか入手できないんだってねえ。やっぱり、ないんだってさ。」と言って、うれしそうに婆の方を見やる。
婆「そうだわね。なかなか手に入らないのよね。それならきょうは十勝じゃなくたっていいんじゃない?こちらで何か一本、頂いていきましょうよ。でも、明日甲州が入荷するって、あなた(ソムリエに向かって)、そうするとこれ全部、外国産のワインなの?」
「外国産のワイン」。このひと言で、私のダンボ耳は破裂しそうになった。これはもう、ソムリエ氏の忍耐力を試すような強烈な一撃である。コレゼンブ外国産ノワインナノ?イナバウアーってどの瓶なの?ほとんど、それに等しいインパクトではないか。
ソムリエ氏、顔を紅潮させながら、かなりまごついた様子で、こう答えた。「はい、そうでございます。わかりました。そういうことでしたら、本来有料でございますが、こちらをちょっとお試し下さい。特別に致しますから。」と言って、木樽のミニバーコーナーに置かれたプラスチックカップの前へと御一行様を導き寄せた。偉い!
婆 「あら、試飲させて下さるのね。試してみましょうよ、ねえ。」楽しそうである。爺「そうだな。意外といけるかもしれないからな。」
ソムリエ氏は、正三角形に変形しかかった両の目を必死の笑みで丸く戻しながら、木樽の上の赤白を指さして「赤に致しましょうか、白に致しましょうか。これはイタリアのですね…」などと、いまさら無駄な講釈を始めた。爺も婆も上機嫌で娘夫婦も和気あいあい。これにて、土曜劇場の一幕喜劇は幕となった。
それにしても、スーパーのソムリエというのも辛い仕事だ。 |