2005/03/05
子供の頃から「みかん」が大好きで、あの橙色のつややかな果実が八百屋の店先に山積みされ、それが太陽の光をキラキラと反射する様を見ると、我が季節到来と、うれしくて仕方がなかった。十二月のおしまいに生まれた私は、だからというわけでもないだろうけれど、なんといっても季節は冬なのであって、ぴんと張った空気がゆるみはじめ、やがて春がやってくるという時節は、昔からどうも苦手だ。
高校二年の時だったか、英語の授業で「四月は残酷な季節だ」という詩の一節に出会い、それを読んだとき一瞬にして、「ああ、自分と同じように、春先に重苦しさを感じる詩人が海の向こうにもいるのだ」などと、どうにも救いようのない頭空っぽの、勝手な思いこみをしたことを思い出す。そして、その時英語の先生が、まるでご自分がその詩に酔うような調子で授業なさっていた姿もまた、はっきりと覚えている。
その四年後、大学三年の時だったと思う。この詩が英国の近代詩を代表する作品の一つであり、「春先に重苦しさを感じる」猿頭の高校生が勘違いした意味からは、およそかけ離れた深い世界を詠んだものであることを知った。英文学部ご出身の先生が「酔う」のも当然だったのだ。猿が人間になるには長い年月が必要だ。今ようやく、類人猿段階か。
●オレンジ大好き英国と薩摩の関係
そう、みかん、の話だった。古い銀器の世界をたどっていて、ひょんなことから、オレンジについて調べることになったことがある。英国人がオレンジを好きなこと、日本人のみかん好きに劣るものではない、というよりも、それを遙かに上回るところがある、と言っても決して大げさではないだろう。
それは、フレッシュオレンジのジュース、濃縮還元ではなく、生のオレンジをそのまま搾った贅沢なジュースが、しばらく前から英国では当たり前のものとなってきていることでも、知ることが出来る。この四半世紀で英国の食文化は、大きく変わった。「イギリスはおいしい」という言葉が一種「反語的表現」として通った時代は、もうとっくに終わっている。
ロンドンを語るに当たって、この言葉を「反語的表現」として使って笑う資格は、今の東京人には、もはやない。現在のロンドンは東京に比べればずっと、グルメの都市になっている。リンボウ先生もたぶん、このことについては、認めて下さることと思う。時は静かに、そして確実に、流れているのだ。
ミカンに戻ろう。そんなオレンジ好きがたくさんいる彼の地の八百屋やスーパーの店先には当然、広く世界中から届けられるオレンジの類が並ぶわけで、種類はなかなか豊富だ。その中に、見かけは日本のミカンによく似たものがあることは、英国で暮らしたことがある人ならば誰でも知っている。そして、その「ミカン」が"Satsuma"と表記されているのを見て、思わず笑いたくなってしまった記憶がある人も、少なくないはずだ。
初めてこれを見たとき私は、「薩摩」まさか鹿児島ミカンなのかと一瞬驚いて、東京でもめったに見ることのない鹿児島ミカンが、どうしてロンドンにあるのかと、不思議に思った。
薩摩の国は昔から、幕府に隠れてご禁制の海外貿易をやっていたことで知られている。だから、ひょっとすると島津家は江戸時代以来密かに、これを東南アジアあたりにまで輸出してきた歴史があるのかもしれない。それがポルトガル経由でこの地にまで言葉として伝わっていて、晴れて鹿児島ミカンが英国に輸出されることになっているのかもしれない。そんな妄想に近い想像をめぐらしたのは、幾らなんでも行き過ぎだった。
もちろんこれは、「鹿児島ミカン」ではない。"Satsuma"すなわち「薩摩」であることは間違いないだろうが、私の知る限り、こう呼ばれるミカンは、だいたいスペイン産ということになっている。そしてこの呼び名の由来については確か、どこかで読んだ記憶があるのだが、思い出せない。そこで、調べてみると、どうやら明治初期にアメリカ向けに鹿児島からミカンの苗木が輸出されていて、それで"Satsuma mandarin"「薩摩ミカン」という名称が定着したらしい。
●柑橘類を温室で育てた貴族達
イギリスの気候を考えてみれば当然のことながら、この「薩摩」に代表されるように、柑橘類は海の向こうの外国からやって来るものと相場が決まっている。だからこそ昔から、果物すなわちフルーツは、上流階級の贅沢を象徴するモノとしてあって、それを食卓に出すために作られた銀のフルーツディッシュやバスケットの類に、とりわけ素晴らしい品物が少なくないことは、フルーツというものが彼の地の食卓で占めてきた意味の大きさに比例するからだと言っていいだろう。
この果物、とりわけ柑橘類に対するあこがれの大きさは、日本のように、ミカンや桃やスイカなどの果物が豊富な国で育った人間からは、想像も出来ないほどのものがある。まして、それが、モノを運ぶことが困難であった昔であってみれば、話は、なおさらのこととなる。
それを象徴するのが、英国の上流層の邸宅の、広大な敷地の一角に作られた「温室」の存在だ。温室の有無というか、大きさを含めた水準が、その邸宅の格を決めると言ってもいいのではないかと思われるほど、その昔は温室作りに人間の手間暇とお金を掛けたもののようだ。
そしてそれが一体どんな雰囲気のものだったのかを知りたければ、現在も稼働するキュー・ガーデンの広大な温室を訪ねてみればいい。中に入れば、見上げる高さにまでうっそうと茂る南国の樹木に囲まれ、冬でもムッとするような湿度と温度に一瞬、東南アジアのジャングルの入口に立っているかのような錯覚を覚えるほどだ。もともと、このキュー・ガーデンは、などと話を続けたいところだけれど、そんな話ではなかった。ミカンに戻ろう。
ミカンを表す英語はなにも、「薩摩」に限らない。もちろん、基本的にはオレンジ、という言葉が使われるわけで、このオレンジという言葉にはなかなか面白い来歴があるので、興味ある方はお調べになってみると楽しいと思う。
温室は一般に"greenhouse"という言葉が使われるが、マナーハウスなど大きな邸宅のそれは普通、"orangery"と呼ばれている。これを日本の辞書では「栽培温室」などと訳していて、どうやら、草花がメインの"greenhouse"に対して、果樹中心のオランジェリーという使い分けがある、ということになるようだ。そして、この呼称からは、こうした大きな温室では、オレンジを育てることが一番の目的だったらしい、ということがうかがわれる。
そんな温室育ちのオレンジは、生で食べても、あまりおいしそうなものとも思われないけれど、ジョージアンはもちろん、ヴィクトリア時代の英国でも、これを食卓でサーブすることは、最高のもてなしの一つだった。当然その供し方には、かなりの工夫が凝らされていて、それは例えば、こんな感じだ。
表皮は砂糖漬けオレンジピールにして保存し、半年程も経た頃にこれを取り出し、チョコレートを溶かし掛けて、そこにカラフルな色をつけた砂糖を振って凝ったお菓子に仕立て上げる。中の実はブランディーに漬け込んでおいて、たっぷりとブドウの精を含んだ時分にそれを取り出し、濃厚にして強烈なデザートとして楽しむ。また、野鳥料理のソースには、ワインやブランディーと合わせて使ってみる。などなど、その味と香りに対する追求は、半端なものではなかった。
●イギリスとフランスの曖昧な国境線
そんなお菓子や料理を語れば、「それって、フランス料理の世界ですよね。」という声が聞こえてきそうだけれど、歴史的に少し遡って、フランス革命前の時代の更に前を考えてみると、話はそう、単純ではなくなる。料理に関連することで、もう一歩踏み込んで、更に時代を過去にさかのぼってみる。すると、あのボルドーの赤葡萄酒を産み出す地域が、「英国」の側から見れば、イングランド王の支配下にあったという時代の地図が眼前に広がり始める。
その地図を思い描いてみると、現在の「英仏国境」という「線」は、だんだん溶けて、あやふやになってくるはずだ。だいいち、当の「フランス」に、果たしてオレンジは昔から自生していたのだろうか。「カモのオレンジソース」という、おいしい料理があるのだから当然だろう、などと言わないで頂きたい。あの陽光あふれる南仏ならば、古くからのオレンジの郷だろうなどと、イメージだけで考えると、歴史が見えなくなってくる。
さらに、その南仏には、「はい=イエス」という意味を表現するのに、「ウィ」という言葉を「使わなかった」地域が大きく弧を描いて広がっている。「パリの支配者」北部フランスと比べるならば、料理も言葉も、時に宗教的な基盤までもが異なっている。ここでは、遠くのパリを望遠鏡で眺めやるよりも、眼前に広がる紺碧の海からの風、オリエントの香りをはこんでくるレヴァント(地中海東部沿岸)からの風に、オレンジを含めて歴史の謎を解く鍵が隠されているのではないだろうか。
●タンジェリン・ドリーム
またまた回り道をしてしまった。そうだ、英国のオレンジの話だった。このオレンジ、思いのほか早い段階から英国に「輸入」されている。いわゆるビターオレンジの場合十五世紀末には既に、かなりの量が入っている。また、甘みのあるオレンジならば、十七世紀の中頃には、イベリア半島からイングランドの宮廷に届くものとなっている。英国人のオレンジ好きは、この頃から本格的にスタートすると考えてよさそうだ。以後彼らは、様々なミカン的なるオレンジ的なるものと出会うことになる。そんな出会いの一つに、タンジェリン "tangerine"という種類がある。
その昔ジョン・レノンの歌の歌詞の一節に"tangerine dream"というのがあって、それが彼の歌声にわずかに隠されている「甘さ」を前面に出している歌い方だったことが忘れられない。だから"tangerine"という言葉はいつだって、ジョン・レノンがヤクでも打って歌っているような、気だるい甘い危険な囁き"tangerine dream"として、私の耳の中に甦ってくる。
そう、このタンジェリンなのだ、オレンジについて調べることになった、そもそものきっかけは。英国で出された、ある書物を調べてみたところ、当然ながらこの語は、オレンジの中の一項目としてあげられていた。そして、大項目であるオレンジの書き出しは、「もともと中国原産であり、だからこそ"mandarin orange"なのであって、これが最初に中国の外に伝わった地域の一つが日本である」と、日本人である私がびっくりするようなことが書いてある。ひょっとして、こんなことは誰でも知っている常識なのだろうか。
更に、その伝播の時期について、「日本の最初期の文字文献、これは八世紀頃のものであるが、その遙か以前に日本に伝わっていたことは間違いない」という意味のことが書かれている。この解説の言う「最初期の文字文献」というのが、おそらくは、記紀や万葉あたりを指すのであろうということはすぐに想像できて、とするならば、この英語の書物は、かなり信用できそうだと判断した。
そして、肝心のタンジェリン(tangerine)については、「モロッコにある町の名タンジール"Tangier"に由来する」と説明されている。
「タンジール」という地名の響きには、カーサブランカやセウタという音が共鳴する。やがて、その音の波紋は、マグリブもしくはマグレブという語へと広がりを見せはじめる。しかし、波はそのあたりからいつしか、現実と幻想の境あいまいとなり、砂漠の風砂にかき消されていくのが目に見える。そして、その今そこで砂にかき消されていく波紋の中に、ごくうっすらと、サヘルいやサ・ハ・ラだろうか、そんな文字を一瞬見たような気がするのは、喉の渇きとあまりにまぶしい太陽のせいだ。
フランス好きにとってマグレブという言葉には、そんなイメージを思い浮かばせてくれる魅力的な響きがある。言葉の響きを聞いただけで人間は、時に、旅の心を思い出す。
それにしても、なぜ、タンジールなのだろうか。
まだ、本題に入る前に、すでにかなりの長さになってきた。この頃どんどん、話が長くなってきていて、これは必ずしも「年のせい」ということばかりではない、と自分では思っている。
英国の食文化が大きく変わったように、私の頭もまた、猿頭から類人猿の脳へと、静かにゆっくりと変化しているのだ。そうした変化が表面に現れるときは、突然一気に現れてくるので、外から見ているとビックリしたりするが、本人の中では実は、長い時間の中で変わってきたものであること、間違いない。「人間が突然変った」などというのは、言葉の綾に過ぎない、と思う。モノリス?
「タンジールのみかん」の話、次回へと続きます。
■講座のご案内
今年は五月以降、ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷について、これまでにない視点から、あれこれお話をする機会が実現しそうです。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。詳しくは→こちらへ。
2005/03/05

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