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不定期連載『銀のつぶやき』
第19回「スパイスの映画」

2005/03/30

「タッチ・オブ・スパイス」と題された映画をみた。

印象深い映画だった。

舞台はイスタンブール(コンスタンティノープル)の香辛料を売る店。主人公は、その店の主人である、お爺さんの孫。お爺さんは孫に、様々なスパイスを使って、料理から世界の仕組み、さらには人間の心までをも教えていく。

スパイスの粒を天体に例えてみることを教えられた孫は、長じて、料理人から宇宙天文学者となっていく。このあたりの設定がおもしろい。そして、映像が、その色調が、いい。

たいして映画を見るわけではないけれど、久しぶりに、自分の好きなタイプの映画に出会った、と感じた。この前は、アンドレイ・ソコロフといったろうか、ロシアの監督がエルミタージュ美術館を舞台として撮った映画だった。

この「スパイス」という映画には、むしろ、「隠し味」というタイトルがふさわしい。料理を人生に見立てながら、僅かに入れられた思いも掛けないスパイスが、その料理の、人生の味の決め手となることを教える。いわば、甘い料理には塩、醤油味にはむしろ砂糖、という感じで。

「多様な材料で作りあげる料理は人生。それを作るのは一人一人の人間。そしてスパイスは、折にふれて移ろう心のひだ。イスタンブールのスパイス店を舞台に織りなす感動の人間模様」などと表現すれば、耳には心地よいかもしれないが、この映画実は、そう「甘く」はない。

●幾重にも重ねられた象徴の豊かさ

確かに、この映画には、沢山の料理とスパイスが出てくる。食卓を囲む場面の多さも見所の一つだ。しかし、これは断じて「料理映画」ではない。食事の場面も、料理も、スパイスもすべて、いわば「出汁」として使われている。要するに、何かを象徴するものとして表現されている。

この映画は、その意味で、何重にも様々な象徴が重ね合わされている。映像もセリフも、沢山の象徴が、複雑に組み合わされている。歴史、民族、宗教、生活習慣、風俗、そして、その多様な要素を体現するものとしての人間。

そんな異なる民族文化を背景に引きずる人間たちが、愛し合うこと、憎しみをもって争うこと、それを「料理とスパイスと食卓」という舞台を通して描いている。この映画においてスパイスが象徴するものは、

「確かに存在するが、よほど気をつけてみなければ、手で触ることも、目で見ることも、舌で感じることもできない、何ものか」

ということになりそうだ。

そんな象徴として隠されているものは、時に、子供の頃の淡い恋心であったり、セクシャルな熱情であったり、食べて育つ料理の違いであったり、風俗習慣の違いからくる異邦人としての感覚であったり、歳と共に痛む古傷であったり、する。

その幾重にも幾層にも組み合わされた象徴の、「絵解き」「音解き」「セリフ解き」が、少しでも理解できたとき、「ああ、なるほど、そういう意味だったのか」と、監督の芸の細かさ、人間を見る目の豊かさときめの細かさにに、感心させられることになる。

一見ささいな出来事、それが実は、人生には大きな力となって働きかけてくる。人はそれと気づかぬままに、そんな見えぬ力に導かれて、思わぬ方向へと人生の旅路を歩んでいく。監督は、そんな力を「スパイス」という言葉にのせて表現したかったのではないだろうか。

●子供が働く街、イスタンブール

僅かな経験しかないけれど、コンスタンチノープルすなわちイスタンブールは、いろいろな意味で、深みのある都市だ。その歴史的な深みの幾つかの側面が、その陰影の深さが、この映画には自然に描かれている。

主人公が育つスパイスを売る店は、ユスキュダルとかあのあたりにありそうな雰囲気だ。あの一帯は、旧市街とも新市街とも雰囲気が違っている。ひょっとするとあの辺りには、ギリシア系のトルコ人が集まって住む地域があるのかもしれない。

イスタンブールというと、どこに行っても、子供が働く姿が印象に残っている。私が滞在していた旧市街の製靴工房が集まる町では、小学生くらいの子供が、大勢働いていた。革をたたく子供や、工房内で叱られている小さな見習い職人たち。半製品が山積みの大きな板を、両手で支えて頭の上に載せ、背中を少し曲げ、前かがみになって、その荷を運ぶ男の子の姿を、毎日のように見た。ここで働く三人に一人は、中学生以下ではないのか。昼休みに工房の回りに集う彼らの姿を見るたびに、そう思った。

幼い兄弟姉妹が小さな商店の店番をやっている光景は当たり前。町外れの城壁の写真を撮っていたら、小学生の兄弟からお金を「請求」された。あれも彼らの「仕事」だと思う。ウシュキュダルの公園では、三十代半ばのお父さんと、上が十二、下が九歳くらいの兄弟が、木陰に並んで、靴磨きをやっていた。とにかく、どこに行っても、子供が働いている。

そんな思い出があるから、この映画では、星の王子様のような格好をした子供が、店で少年時代の主人公と向き合う場面が印象的だった。あのおとぎ話のような格好をした子供が何を意味するのか、あの町に行ってみたからこそ、理解できる。この場面は、二人の子供が、別の宗教だということを暗示していて、これが映画の通奏低音となっている。

ギリシア正教とイスラム。片方が壁面にモザイクで聖人を描き、もう一方がその壁を塗り込めてモザイクを覆い隠す。時世が変われば再び、聖人のモザイクが復活する。「今はキリスト教会だけれど、その昔はモスクだった。しかし、そのまた以前は、キリスト教会だったのだ。」などという、教会ともモスクとも判断に困る建物が、あの町には、幾つも存在する。

別の世界に属する二人が恋をして結婚するには、互いの料理を知らなければならない。日本ならば、正月のおせちが、新婚初めての喧嘩の種になることも、珍しくない。それに似たことを表現する場面が、何度か出てくる。料理が、二人の属してきた文化の違いを象徴する。

だからこそ、「単なる料理」が、争いの元ともなる。そうなのだ、ここでの料理とスパイスは象徴なのであって、その衣の下には、大きな世界が隠されている。だから、単なる料理が、僅かひとつまみのスパイスが、時に恐ろしい力を発揮するのだ。

この映画のように、象徴性の高い映画は、隠されている世界もまた、それだけ大きい。一見、料理を通じて淡い人間愛を描いた映画のように見えなくもない。いわばパステルカラーの柔らかな砂糖菓子。

しかし間違いなくその下に、ぶつかればタイタニックを沈めてしまうほど、ガチンとでかい氷山が隠れている。その氷山の大きさと固さと冷たさが、映像と音楽の甘さを引き締めている。ヴィシソワーズも生ガキも、冷たくなければ、おいしくない。

●「男はつらいよ」

食べることの好きな人、料理の好きな人であってみれば、様々な形で、人生のひとコマが料理と結びついている、ということが、あるはずだ。彼女が初めてアパートにやってきて作ってくれた、その手料理の、ヘタだけれどおいしかった、あの味。接待で部長と行った高級焼き肉屋の、舌がとろけそうな霜降り牛。仕事をしくじり、冬の夜、一人恵比寿の定食屋で食べた、アジのフライ定食。ありありと、その場の情景から、口に広がる味わいまで、はっきりと思い出すことが出来る。

心の隅にこんな思い出がある男ならば誰しも、この映画の幾つかの場面で、「あっ、痛いところをついてきやがる」と思うに違いない。そう、この映画は断じて、「料理映画」ではない。敢えて言う、これは「男の映画」だ。男がふだん黙して語らない、その心理の奥底を、幾層にも絵の具を重ねて描いた作品と見た。

もっとも、如何に硬い氷山も、暖かな豊かな海に包まれると、溶けてしまう。「俺は溶けないぞ」と張りつめていた意地を捨ててみれば、子供の頃を思い出し、新しい世界が始まる。ちょっぴり「ほろ苦さ」を含む最後の一場は、そんな「再生」のお話だとも受け取れた。

 

今回は、タンジールの話の続きのはずであったけれど、思わぬ出会いに回り道。さて、次回はどうなることやら。ヘタな予告は、しないでおこう。

 

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2005/03/30