その昔ロンドンでは、金銀器を作ったり売ったりするためには、組合に入ることが必要だった。組合に加入せず勝手に金銀器を作って売るなど、絶対に許されないことだった。これは金銀職人に限らない。酒屋も床屋も服屋も肉屋も鍛冶屋も、およそ職人や商人と呼ばれるような人々は必ず、それぞれの業界団体に名前を登録しなければ、商売を許されなかった。これは大変に厳しい規制だった。そしてこれらの同業者組合を総称して、英語でギルド(もしくはレヴァリ・カンパニー)と呼ぶ。
それぞれのギルドは、王様からの特別な許可(Royal Charter)により、その設立が許される形となっていて、金銀職人組合の場合には、1327年に最初のお許しが出されている。「業界内部のことは、自分たちでよく話し合って処理をせよ。規則破りの組合員には、いかなる処分を下しても宜しい。耳をそいでも構わぬ。このイングランド王がさし許す。その代わり、仕事の水準を守り、ちゃんと税金を納めることだけは忘れるでないぞ。」とまあ、こんな具合だ。これを硬い言葉で、特権的な自治権の授与、と呼んでいいかもしれない。このギルドこそ、実質的に中世の都市ロンドンを動かしていた原動力だ。
こうしたギルドの正式メンバーをフリーマンと呼ぶ。フリーマンとして名前を登録してもらうためには、一定の資格が必要だった。原則として、すでに親方(フリーマン)となっている人の下で、最低七年間の徒弟奉公を勤めること。これで初めて、その資格が与えられた。一般的には14歳で、遅くとも17歳までには徒弟に入る習わしだったから、フリーマンになるのは順調にいけば、二十代の前半、ということになる。ここに至って晴れて、他人に隷属していない自由な職人(商人)、として独り立ちすることになる。そして何より重要なのは、法的な意味でのロンドン市民(シチズン)とは、彼らフリーマンのことを指す言葉だったということだ。哀しいかな、徒弟は半人前で、正規のロンドン市民とは認められなかった。
多感な時期の七年間を、同じ家で寝食を共にする。同じ工房で同じ目標に向かって働く。休み時間ともなれば、若い彼らが集団で遊び回り、時に取っ組み合いの喧嘩をするのが日常で、そのため表通りの喧しさは半端なものでなかった、という記録もある。こうした暮らしを通して彼らの間には、否が応でも、強い一体感が生まれていったに違いない。そのうえ、銀職人の子は銀職人になり、やがて独立して結婚する相手もまた、銀職人の娘という場合がほとんどだったようだ。
一階の通りに面した部分が店であり、その奥が工房、上階が住まいと倉庫という作りが一般的で、そうした店舗兼工房兼住居という建物が、ゴールドスミスホールからほど遠からぬ一帯に、集中して並んでいた。街を歩けば、大親方から一介の徒弟に至るまで、誰もが互いの顔を見知っている。その親兄弟に至るまで、どこの誰それと知れている。そうした社会で彼らは暮らしていた。このように、中世ロンドンのギルド社会というのは、それぞれの職業を通じたネットワークを前提としながらも、地縁血縁共に極めて濃密な人間関係を基本として成立する、一体感の強い人間集団の社会であったということになる。
では、誰でも簡単に徒弟として雇ってもらうことができたかというと、そうはいかなかった。基本的にシティのフリーマンの子供でなければ門前払いだった。また、特に世間で一目置かれる職種例えば、貴族層とも関係の深い高級服飾商や金銀職人といった職種への入門は、決して楽ではなかった。かなりの大金を積んで、親方にお願いをする。これが当然のこととされていた。
一流の親方ともなれば、十数人の子飼いの自由職人(独立した工房を構えない雇われフリーマン)に、更に多数の徒弟を抱える例も少なくなかったようで、そうなれば、肩で風切るシティの親方、といったところだ。いつかはシティの親方に、これが中世ロンドンに庶民として生まれた若者の夢だった。
ご承知のように、シティというのはロンドン中心にある一区画のことであって、歴史的にも法的にも、特別な地域だ。ギルドはすべて、この一画に集中する。高級服飾商はマーサーズホール。金銀職人組合はゴールドスミスホール。肉屋組合はブッチャーズホール。魚屋組合ならばフィッシュモンガーズホール。挙げていけばキリがない。そして、こうした各業界のギルドの長が集まって話し合いをする場がギルドホールだ。まさにシティを象徴する建物だといっていい。その頂点に君臨するのが、ロードメイヤーという役職だ。

ギルドホール。ここで開かれる、ロードメイヤー主催の晩餐会に主賓として招かれることは、世界の元首クラスの人々にとっても、最高の栄誉の一つとされている。それにしても、玄関回りにモダンなひさしがあって、風情は台無し。9.11以降、大幅にセキュリティチェックが厳しくなった。
このロードメイヤーこそ、ロンドンのすべての親方組合の総元締めであり、ロンドン市民の総代表だ。その威厳の高さは大変なもので、王様が主催する宴席においては、並み居る貴族諸侯と並んで、一番の上席を占めるのが常だった。これはシティの経済力と社会的影響力、その大きさに対する表敬に他ならない。徒弟奉公から身を立てて、貴族諸侯を凌ぐほどの席次に列せられる。栄誉の頂点といっていい。厳しい身分制度の下、庶民にとって、こうした道が開かれていたことは注目に値する。
その昔こういう事件があった。王様の主催する宴席で、本来ロードメイヤーが座るべき席に、ある有力貴族が平然と座って、王様と親しげに話をしていた。そこにやってきたロードメイヤーは、いつもより下位の座席を示されて怒り心頭、着席することを拒否して帰宅した。個人のメンツではなく、ロンドン市民総代表に対する侮辱と受け取ったからだ。ヘタをすると、ロンドン市民対王様の対立という事態を招きかねない。事の重大さに目覚めた王様は、ここで即座に詫びを入れた。そのお詫びが面白い。当の宴席にあった料理と酒を山積みにした馬車をロードメイヤーの元にさし向けて、一件落着を願ったというのだ。イングランド王がシティのロードメイヤーに対して、いかに気を遣っていたかを示す逸話だ。なぜ私が、こんな話を知っているかというと、こうした宴席こそが銀器にとって一番の舞台だったからだ。
銀器と宴席を通して歴史を知る。
私にとって、楽しみは、これに尽きる。
2005/09/20
■講座のご案内
秋から冬にかけての講座の日程が決定しました。いろいろな場所で、少しずつ異なるテーマでお話させて頂くことになりますが、その基本テーマは一つです。ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。詳しくは→こちらへ。
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