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不定期連載『銀のつぶやき』
第25回「刻印で読み解く銀職人の世界」

2005/09/20

広島日英協会の渡辺専務理事からのご依頼で、英国の銀器刻印について一文を寄稿した。これが2005年7月31日発行の同協会報に掲載された。銀器の好きな皆様にとって楽しんで頂ける内容だと思われるので、理事のご許可のもとに、以下に転載させて頂く。

 

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英国で作られた銀製品には、共通した特徴がある。それが銀メッキではなく純銀の品であれば、よほど古い年代のものでもない限り、まず確実に、ライオンの歩く姿が刻印されているはずだ。立派なティーポットであろうと、耳かきのように小さなスプーンであろうと、違いはない。更によく見てみると、一文字のアルファベットや獅子の頭、錨のマークや王冠、場合によっては王様の横顔が刻されているのが目に入る。英国銀器に見られる、こうした一群の刻印、これを「ホールマーク」と呼ぶ。

では、この刻印で一体何が分かるのかといえば、銀の純度、銀器が作られた都市、製作年、そして何より、銀器を作った親方(工房)の名前など、その銀器にとっておよそ基本的な事柄を、ほぼ正確に知ることができる。たとえ三百年前の銀器であろうとも、純銀で作られたものである限り、品物の氏素性をきちんと、たどることができるのだ。貴金属に刻印する制度は、古くから世界に見られる。その代表が、金貨や銀貨だ。銀器の刻印は、これが形を変えたものだと考えて頂きたい。欧州全域に類似の制度はあるが、英国ほど整備された制度のある国は、他にない。

手元の古いテーブルスプーンの刻印。1790年ロンドン。工房は、"HB"というイニシャルが天地逆になる形で、写っている。"HB"というのは、ある女性銀職人の工房を示している。

 

調べる熱意と気力があるならば、英国銀器の刻印は、更に深い世界へと我々を導いてくれる。銀職人が徒弟として入門した年、就いた親方の名前、初めて独立して親方となった年、そのとき組合に登録した刻印とイニシャル、工房の所在地(所番地)、これを移転した場合に、その移転先、他の工房に吸収されたときには、その経緯等々。いわば、銀職人にとって「人生の節目」にあたる出来事を、たどることさえできるのだ。これもひとえに彼らの所属した金銀職人組合の記録が充実しているおかげだ。

もっとも、実際に調べ始めてみれば、事はそう簡単には運ばない。時間、労力、のめり込み。時には、イギリスにいる鬼のようなプロの助けも必要だ。それだけに、こうした手探りの果てに、その概略をつかむことができた時の喜びは大きい。なぜなら、そこに三百年前の一銀職人の人生が、立体的に浮かび上がってくるからだ。刻印というミステリアスな暗号の向こう側に、一人の人間の姿が見えてくるのだ。何より、その親方の作った銀器が手元にあってのことなのだから、感慨深さもひとしおだ。

では、彼らの所属した金銀職人組合とは一体どのようなものなのか。これを知るために、もう一度、冒頭の「ホールマーク」という言葉に戻ってみよう。この言葉は、読んで字のごとく、ホール(hall)とマーク(mark)という二つの言葉の組み合わせからできている。後半のマークについては説明するまでもなく、印(しるし)という意味であって、ここでは刻印を表している。それでは、前半のホールとは一体、何を意味しているのか。

ここでホールという語は、ある建物を指し示す。具体的には、ロンドン最大の教会であるセントポール大聖堂から徒歩二分の場所にある、ゴールドスミスホールを意味している。では、そのゴールドスミスホールとは一体何か。まるで、言葉の謎解きゲームのようだが、しばらくおつきあいを願いたい。これは、同業者団体である、金銀職人組合の組合会館のことだ。そしてこの組合の正式名称を"The Worshipful Company of Goldsmiths"という。

 

ゴールドスミスホールの正面玄関。第二次世界大戦中、ドイツの空爆により、大きな損傷を受けたが、見事に再建。建物の内部、とりわけ大ホールの立派さは、このギルドの往時の力をしのばせるに十分な迫力がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その昔ロンドンでは、金銀器を作ったり売ったりするためには、組合に入ることが必要だった。組合に加入せず勝手に金銀器を作って売るなど、絶対に許されないことだった。これは金銀職人に限らない。酒屋も床屋も服屋も肉屋も鍛冶屋も、およそ職人や商人と呼ばれるような人々は必ず、それぞれの業界団体に名前を登録しなければ、商売を許されなかった。これは大変に厳しい規制だった。そしてこれらの同業者組合を総称して、英語でギルド(もしくはレヴァリ・カンパニー)と呼ぶ。

それぞれのギルドは、王様からの特別な許可(Royal Charter)により、その設立が許される形となっていて、金銀職人組合の場合には、1327年に最初のお許しが出されている。「業界内部のことは、自分たちでよく話し合って処理をせよ。規則破りの組合員には、いかなる処分を下しても宜しい。耳をそいでも構わぬ。このイングランド王がさし許す。その代わり、仕事の水準を守り、ちゃんと税金を納めることだけは忘れるでないぞ。」とまあ、こんな具合だ。これを硬い言葉で、特権的な自治権の授与、と呼んでいいかもしれない。このギルドこそ、実質的に中世の都市ロンドンを動かしていた原動力だ。

こうしたギルドの正式メンバーをフリーマンと呼ぶ。フリーマンとして名前を登録してもらうためには、一定の資格が必要だった。原則として、すでに親方(フリーマン)となっている人の下で、最低七年間の徒弟奉公を勤めること。これで初めて、その資格が与えられた。一般的には14歳で、遅くとも17歳までには徒弟に入る習わしだったから、フリーマンになるのは順調にいけば、二十代の前半、ということになる。ここに至って晴れて、他人に隷属していない自由な職人(商人)、として独り立ちすることになる。そして何より重要なのは、法的な意味でのロンドン市民(シチズン)とは、彼らフリーマンのことを指す言葉だったということだ。哀しいかな、徒弟は半人前で、正規のロンドン市民とは認められなかった。

多感な時期の七年間を、同じ家で寝食を共にする。同じ工房で同じ目標に向かって働く。休み時間ともなれば、若い彼らが集団で遊び回り、時に取っ組み合いの喧嘩をするのが日常で、そのため表通りの喧しさは半端なものでなかった、という記録もある。こうした暮らしを通して彼らの間には、否が応でも、強い一体感が生まれていったに違いない。そのうえ、銀職人の子は銀職人になり、やがて独立して結婚する相手もまた、銀職人の娘という場合がほとんどだったようだ。

一階の通りに面した部分が店であり、その奥が工房、上階が住まいと倉庫という作りが一般的で、そうした店舗兼工房兼住居という建物が、ゴールドスミスホールからほど遠からぬ一帯に、集中して並んでいた。街を歩けば、大親方から一介の徒弟に至るまで、誰もが互いの顔を見知っている。その親兄弟に至るまで、どこの誰それと知れている。そうした社会で彼らは暮らしていた。このように、中世ロンドンのギルド社会というのは、それぞれの職業を通じたネットワークを前提としながらも、地縁血縁共に極めて濃密な人間関係を基本として成立する、一体感の強い人間集団の社会であったということになる。

では、誰でも簡単に徒弟として雇ってもらうことができたかというと、そうはいかなかった。基本的にシティのフリーマンの子供でなければ門前払いだった。また、特に世間で一目置かれる職種例えば、貴族層とも関係の深い高級服飾商や金銀職人といった職種への入門は、決して楽ではなかった。かなりの大金を積んで、親方にお願いをする。これが当然のこととされていた。

一流の親方ともなれば、十数人の子飼いの自由職人(独立した工房を構えない雇われフリーマン)に、更に多数の徒弟を抱える例も少なくなかったようで、そうなれば、肩で風切るシティの親方、といったところだ。いつかはシティの親方に、これが中世ロンドンに庶民として生まれた若者の夢だった。

ご承知のように、シティというのはロンドン中心にある一区画のことであって、歴史的にも法的にも、特別な地域だ。ギルドはすべて、この一画に集中する。高級服飾商はマーサーズホール。金銀職人組合はゴールドスミスホール。肉屋組合はブッチャーズホール。魚屋組合ならばフィッシュモンガーズホール。挙げていけばキリがない。そして、こうした各業界のギルドの長が集まって話し合いをする場がギルドホールだ。まさにシティを象徴する建物だといっていい。その頂点に君臨するのが、ロードメイヤーという役職だ。

ギルドホール。ここで開かれる、ロードメイヤー主催の晩餐会に主賓として招かれることは、世界の元首クラスの人々にとっても、最高の栄誉の一つとされている。それにしても、玄関回りにモダンなひさしがあって、風情は台無し。9.11以降、大幅にセキュリティチェックが厳しくなった。

このロードメイヤーこそ、ロンドンのすべての親方組合の総元締めであり、ロンドン市民の総代表だ。その威厳の高さは大変なもので、王様が主催する宴席においては、並み居る貴族諸侯と並んで、一番の上席を占めるのが常だった。これはシティの経済力と社会的影響力、その大きさに対する表敬に他ならない。徒弟奉公から身を立てて、貴族諸侯を凌ぐほどの席次に列せられる。栄誉の頂点といっていい。厳しい身分制度の下、庶民にとって、こうした道が開かれていたことは注目に値する。

その昔こういう事件があった。王様の主催する宴席で、本来ロードメイヤーが座るべき席に、ある有力貴族が平然と座って、王様と親しげに話をしていた。そこにやってきたロードメイヤーは、いつもより下位の座席を示されて怒り心頭、着席することを拒否して帰宅した。個人のメンツではなく、ロンドン市民総代表に対する侮辱と受け取ったからだ。ヘタをすると、ロンドン市民対王様の対立という事態を招きかねない。事の重大さに目覚めた王様は、ここで即座に詫びを入れた。そのお詫びが面白い。当の宴席にあった料理と酒を山積みにした馬車をロードメイヤーの元にさし向けて、一件落着を願ったというのだ。イングランド王がシティのロードメイヤーに対して、いかに気を遣っていたかを示す逸話だ。なぜ私が、こんな話を知っているかというと、こうした宴席こそが銀器にとって一番の舞台だったからだ。

銀器と宴席を通して歴史を知る。


私にとって、楽しみは、これに尽きる。

2005/09/20

■講座のご案内

秋から冬にかけての講座の日程が決定しました。いろいろな場所で、少しずつ異なるテーマでお話させて頂くことになりますが、その基本テーマは一つです。ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。詳しくは→こちらへ。