2006/12/22
スーパーで買い物を終えて車の後部座席に袋を置く。家に戻り、車を止めてドアを開けた途端の出来事だった。あっ!と思った瞬間、もう遅かった。
開けたドアの隙間から座席の隅に置かれていたスーパーの袋がスッと滑って、中からお酒の瓶が滑り落ち、そのまま駐車場のコンクリートに。瓶はこなごなに割れる。ガラスの破片があたりに飛び散る。酒がコンクリートの地面にゆっくりと大きな黒いシミとなって広がり始める。どうして、せっかくいいお酒を買った今日に限って、こんなことが。
十二月というのに、風もなく暖か。まだ宵闇にはいったばかりの時。気が付けば、あたりに素晴らしい香りがただよい始めている。なんて香りがいい酒なのだろうか。その名も「刈穂」。たわわに実った穂を刈る。その一粒一粒の米がかもされて酒となる。だから「刈り穂」なのだろう。その大切なお酒を…。罰当たり、どうぞご容赦下さい。
子供の頃、稲刈りの様子を見たことがある。それは農家にとっても特別な季節だったはずで、稲刈りの季節ともなれば農家には、忙しさと共に、独特のはなやぎが感じられた。
朝早くから腰をかがめて稲を刈り、刈った稲は、田んぼの所々に重ねられ、やがてはざ掛けされる。昼ともなれば畦にお弁当を広げ、お茶にお菓子。和気あいあいとしたひとときが済んだ後は、またひと仕事。午後四時頃には一日の仕事を了えていたのではなかったろうか。
取れた米は、時に玄米のまま小さな袋に入れて村の神社へ。こうして神社に新米が山と積み上がると、やがて新嘗祭。秋祭りがやってくる。そして、その新しい米で酒造りが始まる。こうして出来上がったお酒が、ふたたび、神様の前へと捧げられる。
古代の日本も、古代ギリシアも、酒は神様と人間を結んできた。そして酒は、いろいろな意味で、儀式にはなくてはならないものであり続けている。実は、この点で、酒と銀器はまったく同じだと言って差し支えない。銀器もまた、神と人を結び、儀式に欠かすことができない品物であり続けている。
おそらく、酒の歴史の方が、多少は古いかもしれない。しかし、銀器の歴史も、これをたどり始めてみれば、驚くほどの古さがある。こうしたことが見えてくると、ますます、銀器の歴史を探ることが面白くて止められなくなる。
銀器は、それだけの深みと長い歴史性があるものなのだ、ということを頭の隅にとどめて頂ければ、と思う。
気が付けば今年ももう、あと数日。この二ヶ月、更新がすっかりとどこおってしまって。この間に見たこと読んだもの出会った人々。そのうちここでお話として登場しそうなことがいろいろです。
というわけで、2006年ご贔屓下さいました皆様に、心から御礼申しあげます。どうぞ皆様、良いお年をお迎え下さいますように。
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