2006/4/5
気温41度。空には一点の曇りもない。突き抜ける青空。溢れる光がひたすらまぶしい。サングラスを用意してくるべきだった。空気は乾ききっていて、風はそよりともしない。少し歩くだけで喉が渇く。手持ちの水はどんどん減っていく。これではとても、観光などしていられない。それでも、意を決して、歩く。マドリッドの夏は、熱い。
やがて王宮広場にたどり着く。高台にある広場に立ったとき、地平線まで見通しのきく光景に、軽い驚きを感じた。隅々までシャープにピントの合ったパノラマ写真のような景色が、眼前に広がっている。一点のあいまいさも、ない。景色に明確な立体感があり、はるか地平線までくっきりと見通すことができる。
その景色を眺めながら私は、これは何かが変だと、感じ始めていた。いったい何が、おかしいのだろうか。特別な建物があるわけではない。不思議な地形でも何でもない。王宮広場の下は広大な公園で、森が広がっている。その先には市街地が見え、さらに先では市街地が終わり、干からびた大地があり、道路が走り、所々に遠くの街が見え、緑が点在している。そんな光景が地平線まで続いている。ただ、それだけのことだ。
にもかかわらず、こんな景色は見たことがない、何かが、おかしい。そう感じた。
しばらく眺めているうちに、ようやく私は、自分の感じる違和感の原因に気が付いた。地平線までくっきりとピントの合った、まるで立体写真のような景色。その「景色の見え方」そのものに、理由があったのだ。
私はその時まで、それほどまでに空気が乾燥しきった土地を訪れたことがなかった。だから、見通しのきく展望台に立ってみても「遠景はかすんで見える」、それが当たり前だった。遠くの景色はボンヤリと見えるもの。それが当然だったのだ。ところが、この王宮広場から眺める展望は、地平線の果てまで、一点たりともかすむところがなく、シャープに見通すことが出来る。そのことに違和感をおぼえたのだ。
「遠景が見えすぎる」ということから来る違和感。間違いなく自分の両目で現実の光景を見ているのに、その現実がむしろ「不自然」だと感じられたのだ。自分の常識を越える現実を目にしたとき人間は、その現実の方を疑ってしまうものであるらしい。
一端そのことに気付いてからは、初めて「立体写真」の見方を覚えた子供のようになっていた。遠くを見たり、近くを見たり。色と形の見え方を確認したり、ただの景色なのに、何か特別な巨大な絵画作品でも見るように、隅から隅まで見渡して遊んでみた。これは、強烈な体験だった。
今から二百年ほど前の絵に、この宮殿の一室を描いたものがある。その絵の背景を見て驚いた。私が王宮広場から見た景色とほとんど同じ雰囲気なのだ。画家は間違いなく、ほぼ同じ位置から、私と同じ方向を見て、見たままを正確に描いている、と思った。遠景は小さく、近景は大きく。遠近法に従って描かれたその絵には、私が実際に見た光景を思い出させる「現実感」がある。
描かれた絵に現実感を感じ、実際の景色に違和感(=非現実感)を感じる。なんとも奇妙な話に聞こえるかもしれないが、実際に、そう感じたのだから仕方がない。人間は、自分の経験と心で、ものを見ているのだ。
そして、そのとき突然、ひらめいた。日本の伝統にはない、西洋的な「遠近法」という描画法は、こうした乾燥しきった空気の中で、地平線までシャープな遠景を眺めることが日常だった人々が生み出したものに違いない、と。
帰国してから、百科事典で「遠近法」の解説を読んでみた。意外なことに、幾何学的な側面や、神学的な思考法との関連が述べられているばかりで、「乾燥した大地における遠景の見え方」から生まれた、なんて説は、どこにも書かれていない。
それでも私は勝手に信じている。「遠近法」は、乾燥した風土が生み出したものに違いない、と。幾何学や神学思考は、そのあとで、つじつまを合わせるために、説明を考究したものではないだろうか。
それどころか、そんな思考方法そのものもまた、乾ききって遠くを見通すことの出来る風土の産物のような気がする。モノの見え方について考え始めると、奥が深い。まあ、あまり面倒な話をするのは止めにしよう。
湿潤な風土に育った私たちの先祖は、遠近法を知らずに来た。ときに、まつわりつく湿気が、うっとうしいと感じることもある。それだって、干からびてしまうよりは、よほどマシではないだろうか。そんな水の豊かな風土を、改めて、ありがたいと思う。とはいうものの、大切な遠景がハッキリ見えない、いや、見せない風土というのも…。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2006/4/5
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