ああ、インディアンの人たちは、今もこんな伝統工芸品を、昔ながらに手作りしているんだ。まさか今はもう、これで野鳥を採ってはいないかもしれないけれど、こうしたものを手で作り続けることで、自分たちの民族の伝統を継承しているんだ。そんな感慨にふけりながら、「野鳥採り網」を手にして、その素朴な道具を、よく眺めてみた。
そしたら、ビックリ仰天グローバル。網の裏の取っ手部分に「Made in Indonesia」とプリントされた小さなシールを発見。まさかまさかの、インドネシア製だったのだ。インドネシアだから、インディアンなのか。では、こちらの小さい人形は?予想に違わず、Made in China。今や世界の民芸品製造センターである、偉大なる中国製だ。あちらのポカホンタスのような布人形、こちらの陶器の少年人形、ズラリと並ぶかわいいインディアン人形たちは、その全てが中国製だった。
そして、ここまでくれば、銀屋の私にはいやな予感が走ったのが、予想的中で、銀細工は、そのほとんどがメキシコ産だった。当然ノコトアルヨ。アメリカインディアン、いまどき手仕事しないアルヨ。
彼らの立場から見れば、もともと生活に必要な道具の手作りは行っていたが、商品として売るためにモノを手作りするという伝統はなかった、という側面もあるかもしれい。
それにしても恐れ入るのは、ちゃんと原産地表示のシールが、はっきりと分かる形で、それぞれの品に貼られていることだ。極東からの異邦人である私に、こうした事態を嘆く権利も資格も、あるとは思えない。ただただ驚き、恐れ入り、感嘆するのみ。
日本の観光地の「産地特産みやげ」でも、実は同様の事態が急速に進行中のはずだが、まず、ここまで大胆に「中国製」とか「ベトナム製」という表示シールを残しておく「おおらかな無神経さ」は、日本の観光地業者には、ないだろう。
敢えて言わせて頂くと、これは何も、その観光村を運営するインディアンの皆さんが、それらみやげ物の原産地表示に関して「良心的」などということではなくて、「伝統工芸?そんなこと、どうでもイイじゃん。どうせ観光地のみやげ物なんだからさ。」という雰囲気を強く感じた。
おおらかというか、無神経というか、投げやりというか。そのすべてかもしれない。きっと、ネットで写真を送って、野鳥採り網を発注しているに違いない。これは、インドネシア製といっても、取り次いでいるのは恐らく、インドネシア華僑ではないのか。ひょっとすると、彼らの強烈な売り込みを前にして、全米のインディアン村でも同様の事態が…。まさか、そこまでとは、思いたくないけれど、想像は次々とふくらんでいく。
これを「経済のグローバル化」と呼ぶのだろうか。中国の外貨準備高が間もなく、日本を抜いて世界一になるという。当然のことだ。中国は、アメリカインディアンの土産物まで「手作り」して、頑張っているのだ。我が国の高度成長期、アメリカの田舎の観光地で土産の皿や人形を買ったら日本製だったという「笑い話」が語られていた。今、その土産物品市場は完全に、中国に取られてしまったのではないだろうか。
それにしてもアメリカに中国製品が溢れていること、日本の比ではない。オクラホマシティには、クリスマス用品を体育館のような巨大な店舗一杯に並べた店があり、これはもう、ほとんど全ての品が、中国製だった。
多くのアメリカ人にとってクリスマス用品というのは、我々にとっての正月用品よりも、もう少し「宗教色」が強いものであると思われる。にもかかわらず、その巨大な店で売られているものは、何から何まで中国製だった。その極めつけが、下の写真の品だ。

まさに聖夜にふさわしい陶器の像だ。聖なるみどり児、マリア様にヨセフ、それに東方三賢人という構図だろうか。ご覧の通り、いささかニッポンアニメ風ではあるけれど、とてもよく出来ている。その、ありがたい雰囲気に、異教徒の私でさえ、隠れキリシタンとなって、思わず拝みたくなってくるほどだ。
店の棚にはこの像が、二十体は並べられていたと思う。その面白さに惹かれて、よーく眺めているうちに、一体一体顔の表情が、それぞれ微妙に異なっているように思えてきた。目の錯覚だろうか。それとも、ひょっとして、手書き?

私は、棚に並べられた全ての像を手に取って確認してみた。まちがいない。大事な部分については、手書きの絵付けだ。一体一体を比べてみると、そこには上手下手があって、特に顔の表情、とりわけ目の描き方に職人の技量の違いがはっきりと出ている。誠にもって画竜点睛。ちなみに、私が買ったのは、二十体の中で一番の上手と思われたものだ。
問題は、その価格なのだ。これがなんと、1ドル。たったの、1ドル。中国で陶土をこねて型に取って焼き、これに手書きの絵付けで装飾し、梱包して輸送して、はるばるアメリカはオクラホマの片田舎に並べて、それで、1ドル。一体、中国の産地からの出し値は幾らなのか。
この商売で、誰が幾ら収入を上げることが出来るのか、考えるだけでも不思議になる。陶磁器の絵付けについて「やはり手書きの絵付けは違いますね」などと言う人が少なくない。けれど、現代中国では、この、たった1ドルの「みどり児ご誕生像」の絵付けでさえ「手書き」なのだ。中国恐るべし、と言うほかはない。

中国の絵付け職人は、この絵付で、一体につき八円くらいは手にするのだろうか。最終価格1ドルから考えるならば、一体の絵付け代に十円はきびしいところだろう。絵付け作業は部分別に最低でも3工程には分業化されているだろう。しかし、いくら手慣れた流れ作業だとしても、これだけの絵付け、各パート一分間で仕上げられるかどうか。最後に像の全体に銀色の粉を撒く作業も必要だ。
仮に四人の流れ作業で、最高で一時間に六十体を仕上げるものとする。一体当たり八円の絵付け代だとすると、全員が休むことなく手を動かし続けて、一時間で四百八十円すなわち一人当たり百二十円!もう何も、言うことは、ない。これが現在の世界経済グローバル化の最前線ということになるのだろう。
梅干しや煎餅、枝豆(冷凍)といった、最も日本的と思われる品々に、しばらく前から、中国産が増えつつある。しかし、これとて、時給百二十円の世界があることを知れば、納得してしまう。「とにかく安い梅干しを」という需要があれば、当然、供給が生まれる。
もっとも、私たちが無邪気に、これぞ「日本の伝統」と思いこんでいるものでも、厳しくその淵源を訪ねてみると、思いの外、外からの要素が入り交じっているものが多い。
梅干しにしても、「梅」そのものは古来中国文化を代表する象徴的な植物であるわけで、中国産の梅干しを「奇妙なモノ」などということは、とてもできない。似たような例はいくらでもあって、たとえば、私たちにとって大切な「伝統民族衣装」であり、お正月を飾るに必要不可欠な「呉服」という言葉。これも、元をたどれば中国から、ということになりそうだったりする。
藤堂明保「漢字源」は、「呉」という文字の説明に、こう記す。 「昔、日本で中国をさして呼んだ呼び名。日の暮れる西方の国の意。奈良時代の日本では江南の呉の地方を中国の代表と考えたので、呉の文字を用いた。中国から渡ってきたきものをあらわすことば。「呉竹」くれたけ、「呉服」くれはどり・ゴフク。…」
となると、「呉服」すなわち「漢衣(からごろも)」ということになる。本居宣長さんなら、何と答えてくれるのだろうか。「伝統」とは、いったい何か。
「呉服」はまかりならぬ、絹も木綿も漢衣(からごろも)ゆえ避けるべし、やまとの麻の衣を着るがよろし、となるのだろうか。もっとも、その「呉服」姿も、ここ数年、めっきり目にすることが少なくなってきた。
せめて、お正月くらいは、やまと心で、通したい。だが、ヤマトびととは、一体誰のことなのだろうか。ふたたび、宣長さんに、その心を問いたい。私たちはいったい誰なのでしょうかと。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2006/1/15
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本年もまた、いろいろな場所で、少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。話の内容は様々ですが、基本テーマは一つです。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。
詳しくは→こちらへ。
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