2006/3/10
南里文雄(1910-1975)というジャズ・トランペッターが昔いた。彼の名を冠した賞がジャズの専門誌に設けられているほどの、伝説の男だ。グーグルすれば、幾らでも情報は出てくるはずだから、基本的なことは、そちらでお調べ頂きたい。
私は彼の生演奏を何度か聴いたことがある。今にして思えば、幸運だったと思う。初めて聴いたのは、彼が再評価される前の時代だ。六本木のサパークラブで酔客相手のクリスマス、まばらな拍手の中での演奏だった。
それは彼にとって辛い時代だったはずだ。世間から忘れ去られつつある、ひと時代昔のディキシーランドジャズのトランペッター南里文雄。上海や大連で、そして終戦直後の東京や横浜で、大ホールを満員にして一世を風靡した時代もあった人なのだ。
しかし、それももう昔の思い出となり、ご本人も周囲も、後はこのまま静かに消えていくことになると思っていたに違いない1960年代後半。ちょうどそんな時代の六本木の、寒々しい冬の一夜だった。
ステージ(フロア)に登場したのは、トレードマークのカンカン帽に派手なストライプのジャケット、そして濃いサングラスの小柄なミュージシャンだった。きっとこの衣装が、古いディキシーランドジャズの、話に聞いた上海とか大連とかでやっていらした当時そのままの雰囲気なのだろうと想像した。なんか古くさいなあ、派手なストライプは関西の二流漫才みたいじゃないか。それが第一印象だった。
しかし演奏は、その外見からはかけ離れた予想外のものだった。サパークラブという場所柄だったからだろう、その夜は、専門のディキシーではなく、ジョージ・シアリング風のアレンジで通しての演奏だったのだ。これが驚くほど魅力的だった。
事前に想像したものとはまるで違うモダンでしゃれた演奏に、私はもうドキドキしながら聴き入っていた。ディキシーっぽい演奏は、「聖者の行進」一曲だけだったと思う。
そして、その日最後に演奏されたのが、たしか「光を求めて」という題名のオリジナル曲だった。これはジャズではなかった。日本の旋律、南里文雄の心の奥底から生まれた旋律だと思った。
南里さんは、人生の途中で視力を失った。ジャズの世界でスターの一人という地位に上り詰めた後、視力を失った。1954年のことであったらしい。だから、この曲の題名は、彼の後半生を象徴している。曲名にある「光」という言葉にはきっと「かつての栄光」という意味もあるのだろうと、子供ながら、そう感じた。
店のお客は、ホステス同伴の酔っぱらいが中心だった。曲の演奏が終わっても、ろくに拍手もなかった。そんな中で南里文雄は「光を求めて」を丁寧に演奏した。自分のかすかな希望を音に託して、つややかな音色でかなでる、ジーンと来る演奏だった。
私はこういう旋律は好きではない。しかし、この演奏は別だった。彼のトランペット、その音色の素晴らしさに、ただ感動させられてしまった。
当時中学二年生の私は、すでにマイルスやガレスピー、ゲッツやエヴァンスも聴いていた。六本木のレコードショップに入り浸っていたのだから当然だ。こと音楽については、超早マセの小生意気なガキの始まり時代だ。
今だから正直に言おう。ひと時代もふた時代も前の、爺さんのトランペット。それもディキシーだなんて。どうせ時代遅れのヨレヨレなんだろうと思っていたのだ。おじさんが連れて行ってくれる、それも六本木のサパークラブだと言うから、むしろそういう場所見たさに、くっついてきたというのが本音だった。店は大通りをはさんで俳優座向かいの路地を少し入ったビルの地下だった。
ところがその夜、南里文雄のトランペットは、その素晴らしい音色の力で、小生意気なガキのバカ頭(=薄っぺらな音楽観念)を一発で吹き飛ばしてしまった。彼の演奏が終わったとき、私は感動していた。心の底から音に泣かされてしまったのだ。
やがて演奏を終えた南里さんが、ボーイさんに手を引かれて私たちの席に来て下さった。遊び人のおじは、仕事の関係もあって芸能&芸術と食の世界に強い人で、南里さんとは古い知り合いだったのだ。それで、当時モダンジャズに目ざめ始めた私を、わざわざ大人の夜の世界に連れ出しにきてくれたのだ。 |