2014/06/06
ヴェネツィアのムラーノ島探訪記。
「コラージ」2013年9月号のエッセイに画像追加。

もしヴェネツィアに行く機会があり、サンマルコ広場以外にも足を延ばす時間があるならば、思い切って本島から3番の水上バスで30分ほどのところにある、ムラーノ島を訪ねてみるといい。ムラーノといえば、世界に冠たるヴェネツィアン・グラスの本拠地であり、ガラス工芸のファンにとっては欠かせない場所だ。装身具やグラス類メインの店、シャンデリアや置物に力を入れる店、さらには作家のアート作品を並べるギャラリーまで、 軽く百を超えると思われるガラス専門店が並び、小さなガラス博物館もある。だが、私がムラーノ島への訪問を勧めたいのは、この有名なガラス工芸のためでは、ない。

潮風を切って緑の海を進む水上バスをMuseoの船着場で降りる。船を背に右に、運河沿いの歩道をガラス博物館の入口を通りすぎて、三百メートルほど歩く。 本島の喧騒がウソのように静かなたたずまい。歩道沿いにロープで係留された小舟が続き、両岸に連なる建物の風情は、間違いなく、アドリア海の小さな港町そのもの。絵になっている。人にぶつからずに歩くことが困難なほど観光客が密集する、あのサンマルコ広場を経験した後であれば、なおさら、その落ち着いた雰囲気に、別世界にやってきたという思いを強くする。 時は、八月。陽光のきらめきに、目が眩む。

やがて、運河の両岸をつなぐ、小さな太鼓橋状の橋が右手に、左手には、三十メートルほどの高さのある鐘楼が見えてくる。その下に、小さいながらもどっしりとした風情の、ビザンチン色濃厚なアルコーブ連なる、サンタ・マリア・エ・サン・ドナート教会。創建は七世紀頃で、本島を含めてヴェネツィアで最も古い教会のひとつとされる。まず、広場に立って、その風情を味わう。いつしか千年の昔へと引きこまれていく気がしてくるはずだ。建物を左へと巡って、薄暗い聖堂内部へと入る。その瞬間、時空を、越える。正面祭壇の上に広がる半球状のドーム。金色のモザイクで覆われ、中空に、両の手のひらをこちらに見せて立つ、九頭身はありそうな、すらりとしたビザンツのマリア様が浮かんでいる。


しかし、ここでぽかんと口を開けて、その見事な姿に見とれていては、いけない。見るべきは、足下、床のモザイク。これが素晴らしいのだ。様々な幾何学模様が次々と展開していく様は、見て、歩いて、飽きることが、ない。最も古い部分は、1140年頃のものというから、今から九百年の昔に造られたモザイク。その上を自分の足で歩くという驚くべき贅沢を、ここで味わうことが出来る。それぞれの意匠は畳一〜二畳分ほどを単位に構成されている。幾何学模様が連なる中に一部、この教会の聖人伝説に関連する、狐を掴んで飛ぶ雄鶏やグリフィンのごとき怪獣の意匠が見られる。これがまた素朴で、楽しい。こうして様々な意匠と色彩の連なりを追い続けていけば、誰しも気づくはずだ。このモザイクは、職人の頭領たちが、その時々の思いによって次々と仕事を重ねていった結果、出来上がったものに違いないと。巧まずして生まれた多様な意匠の組み合わせ。その生き生きとした調和とリズム感。多民族の共生の下に長く続いたビザンチン文化の影を感じる。




研究者であれば、こうした抽象幾何学模様の「隠された意味」を歴史的に読み解くことは可能だろうし、面白そうだ。しかし我々は、ただ自分の感性で、このモザイクを楽しめばいい。そして九百年の長きに渡って、この同じモザイクの上に立って、祈りを捧げてきた移りゆく人々の心に、思いを致してみる。ありがたいことに、この寺を訪れる人は数少ない。その静けさの中で、異教徒であっても、気がつけばあっという間に時が過ぎ去っているはずだ。本堂から外に出る。八月の強烈な陽光の下、塔が影を作り、その影の下にたたずむ。ただひたすらに、セミの声。現代の旅の真の醍醐味。それは、こうした異文化の空気感を全身で味わうことに、尽きる。


広場をあとにして、再びもと来た運河沿いの道を船着場方向へと戻る。やがて正面に運河をまたぐ大きな橋が見え、徐々に観光客の姿が増えてくる。その大きな橋の上に立って、運河と海を見渡してみる。ここがムラーノ島の、観光の中心ポイントだ。そこにもうひとつ、オススメの教会がある。それはそれ、こうして、ビザンツの歴史空間から現在に立ち戻ってみれば、突然お腹が空いてくる。

狭い運河を橋で渡れば、かつて教会であった大きな鐘楼の塔の脇にある建物が、今はレストランになっている。そこに立てば、広場に設けられた大きなパラソルの下の涼しげな座席に案内される。ヴェネツィアならば、海鮮。イカ墨のスパゲッティ、相棒は名産の小さな貝(貝の外観がアサリによく似ていながらも大きさはシジミの半分ほど)のパスタ、それに、イカ・タコ・エビ中心の前菜。冷えた白に加えて、この日は気温38度だったので、敢えて、ビール。他にオススメは、海の幸のリゾット。リゾットにしろ、パスタにしろ、東京のイタリアンでは、この濃厚な味わいに出会うことは、まず、ない。パスタ料理の本質は、アルデンテに茹でた後「さっとソースで和えて熱々を供すること」ではなく、「十二分にソースの旨味を吸わせながらもアルデンテを保つこと」にある。この言うは易しく作るに難しい料理の本質を、この地で食べると、泣きたいほどに知らされることになる。イカ墨のスパゲッティが、濃密な味わいのある、一品の見事な料理となっているのだ。ムラーノ島には、ガラス以外にも、訪れる意味が、ある。

もうひとつ、この島には私にとって興味深い場所があって、いつかそのお話をしてみたい。ところで、このラグーンに浮かぶ小さな島の地元の男性と一緒になり、ここに暮らす日本の女性がいらっしゃる。大和撫子のたくましさですね。それにしても、暑かった。私の写真から、連日40℃前後が続いた、あの夏の空気感が伝わるといいのですが。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2014/06/06

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
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