2010/7/30
先週の日曜日(7月25日)ミュンヘン中央駅南口(ドイツ)を出て横断歩道へと向かいました。駅前でもあり既に信号待ちをしている歩行者が立ち停まっていました。ひと目でトルコ系とわかる服装の女性たちです。頭にスカーフをかぶり、足首が隠れる長さのスカートをはいています。5〜6人の集団。中で目立ったのが、体格のいいお婆さんで、足にはスニーカー、背中に明るい紺色のデイパックという姿です。服とのアンバランスがすごく面白いと感じました。

ミュンヘン中央駅 軽食コーナー充実
この人達のことが印象に強く残ったのは、彼女たちがいずれも、腕に障害者用のアルミ杖を装着していたからです。「ああ、足に多少の障害がある人たちが、何かの集まりに出かけるところなのかな」と思いながら、信号が変わるのを待っていました。
この横断歩道は、単なる横断歩道じゃありません。駅前に路面電車が乗り入れているので、まず3車線の車道、次いで路面電車上下2車線、更に1車線の車道と続きます。これを駅の側から渡って行く必要がある。ぼんやりのんびり歩いて渡ればいいという舗道じゃない。線路があるので、足元に気をつけながら、しかも、思いのほか早く変わる信号を気にしながら素早く渡らないといけない。「健常者」でも、気を使う場所です。
やがて信号が青に変わりました。そしたら、スニーカーにデイパックのお婆さんが先頭を切って飛び出しました。スタスタスタ。その足取りの軽やかなこと。腕に装着した杖、ぜーんぜん使ってません。元気に杖を振りながら「健常者」と変わらないスピードで、見かけの年齢からはびっくりするほどの軽やかさで、お婆さんは飛ぶようにして横断歩道を渡っていきます。同行の、手に杖を装着した中高年女性たちも、全く同じ調子で、彼女の後を追います。私は目を疑いました。あんなに足がしっかりしているなら、杖なんて要らないじゃないか。誰一人、杖を地面についていません。
線路のでこぼこ道を渡るのに杖を使わずに済む。あの杖はいったい何のために装着しているのか。きっと、ちょっと歩くと、疲れて杖をつきたくなるのかもしれない。そう思って、なんだか狐につままれたような思いで、私の前を軽かな足取りでどんどん先へ行く一団を目で追っていました。

ミュンヘン名物 川でサーフィン
さて、それから3時間ほど後のことです。
街歩きに疲れて、小さなお店でお昼を食べていました。舗道にも椅子とテーブルを出しているオープンな気楽な店です。レンティル豆のスープ。とろりと掛けられた唐辛子のソースが、なんだか坦々麺のごまソースとラー油の組み合わせによく似た風味です。そのおいしさを味わいながら、道行く人々を眺めていたら、驚いたことに、さっきのお婆さんが、なんだか辛そうな様子でゆっくりと歩いてやってきます。
杖をつきながら重い足取りで、足を引きずっています。やっとの思いで歩いている、傍目にはそうとしか見えません。朝見かけた時とまったく同じ格好ですが、首をがっくりと垂れて、背中を曲げ、なんだかまるで病人みたいです。どうしちゃったんだろうか。と思っていると、お婆さんは舗道のテーブル席の脇で立ち止ってしまいました。
そしてゆっくりと右手を差し出します。エエーっ、この人「物乞い」だったんだ。テーブル席の中年男二人は、お婆さんを完全無視。でも、お婆さんは動きません。背中を曲げて、首を垂れ、杖を装着した右手を差し出します。これはもう、「哀れな老婆」そのものです。しばらくねばっていましたが、中年男が無視を続けたため、やがて「哀れな老婆」は店内に入ってきました。これには驚きました。店は人手が少なく、忙しく、このお婆さんを追い出す暇もありません。ああ、こっちに来るなと思っていると、案の定、私の脇に「哀れな老婆」が立って、ゆっくりと手をさし出して、呪文のような言葉を低い声で発します。
思わずその「哀れな老婆」のスカーフをひっつかんで、これをひきずり下ろして、化けの皮を剥がしてやりたい衝動に駆られましたが、なんとか、心の中の衝動で抑えました。そのとき「物乞い稼業」という言葉が頭に浮かびました。仕事のために徹底した演技を貫くプロ。彼女は「プロの物乞い集団」の頭領に違いありません。大した役者です。
脇に立った「哀れな老婆」に対して私は、両手で拒否を表し、静かに頭を振り、その目を見つめました。そしたら彼女、プイと顔をそむけて隣のテーブルに移動し、やがて、成果のないままに店を出ていきました。
おいしいお昼を食べ終えて店を出てミュンヘン中央駅へと向かっていくと、朝見かけたお婆さんの「手下」と思われる一人が、杖をつき、背中を曲げ、首を垂れて、「哀れな中年女」を演じているのに出会いました。ミュンヘン中央駅周辺は夏、「本物のプロ」が演じる野外演劇を楽しむことができます。
ひょっとすると、何もかも承知の上で、その「演技」に対して小銭を支払うのが「礼儀」なのかもしれないと後から思いました。それにしても、何事もプロの道は厳しいものですね。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2010/7/30

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

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2010年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。また、この4月号から新たに
大修館書店発行の月刊『英語教育』での連載が2年目に入ります。欧州の食世界をさまざまな視点から読み解きます。ぜひ、ご一読を。
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「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
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