2011/7/10
2009年9月26日午後8時。グリニッチ・ビレッジ(ニューヨーク)のジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」は超満員だった。熱気一杯の混雑具合は、123名という店の定員数をどうみても超えている。1935年創業のジャズクラブはこの夜貸し切りで、中に入ることができたのは、抽選でチケットを入手した70人ほどのファンと、特に招かれたゲストのみ。
ゲストの顔ぶれが凄い。サラ・ジェシカ・パーカー(女優)、ニコール・キッドマン(女優)、ジミー・コブ(ドラマー)、ダナ・カラン(デザイナー)、ヒラリー・クリントン米国国務長官、クリントン元米国大統領....。他に映画会社やレコード会社の大物や、有名な作曲家や作詞家たちの姿も。そして、既に90歳前後と思われる、このクラブの伝説の女性オーナー、ロレーヌ・ゴードンまで、驚くべき顔ぶれが揃っている。
狭い舞台では、ぎりぎり一杯にピアノトリオがスタンバイし、客席は歌い手を待ちかねている。司会が今夜の特別なライブのいきさつを話し、関係者の紹介が終わり、そこに客席を縫うようにして舞台へと向かう黒いロングドレスの女性が登場。全員がスタンディング・オベーション。これだけの大物たちが寸暇を割いて聴きに集まった女性歌手とは、一体だれか。狭いステージに登場したのは、バーブラ・ストライサンドだった(Barbra Streisand, 1942年4月生, バーブラ・ストレイザンドと発音されることも少なくない)。
「ヴィレッジ・ヴァンガード」は1935年に詩の朗読が行われるカフェバーのような店としてスタートし、いつしかレニー・ブルースのような反体制的な風刺漫談やウッディ・ガスリーのようなフォークソング系のミュージシャンたちも、舞台を賑わすようになっていた。こうして1960年代初頭には、決してジャズだけではない、何でもありの刺激一杯のライブハウスとなっていて、1961年バーブラはこの店のオーディションを受けている。この小さな舞台に立つのは、それ以来、48年ぶりのことになる。
当時ここでは日曜日の午後、「新人発掘オーディション」的なショーが行われていた。歌い手のオーディションには当然伴奏が必要で、その週の出演バンドはなんと、マイルス・デイビス・グループ。マイルス(Miles Davis)は「女性シンガーのオーディションの伴奏なんて...」といって参加せず、グループのウィントン・ケリー(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)そしてジミー・コブ(ドラムス)のピアノトリオが、二十歳前の無名歌手バーブラのオーディションの歌伴を務め、マイルスは客席でこれを聴いていたという。それどころか、この時マイルスの前座をつとめていた女性歌手が『内気なジョニー』『ワン・ボーイ』の大ヒットで知られるジョニー・ソマーズだったというから、1960年代初頭のビレッジの面白さが伝わってくる。
当時バーブラ・ストライサンドは歌手になるつもりなど毛頭なかった。エセル・マーマン芸能学院に通ったのも、ひたすら女優になりたいからで、このときまでに既に舞台経験を幾つか積んでいる。「クラブで歌おう」と決断したのは、あくまでもお金のため。早く父を亡くしたバーブラは、母の再婚相手との凄絶な関係を含めて、辛い家庭環境の中でお金に苦労しながら育っている。彼女は「女優になる」という目標を追求するための手段として、当座の生活費を安定させるため仕方なく、クラブで歌うという道を選んだのだった。
その最初のきっかけとなったのが、カフェクラブ「ライオン」だった。それまで「人前で歌う」という経験のない18歳のバーブラにとって、この「ライオン」出演のためのオーディションは、一大決心を要する大変な出来事だった。
「ライオン」は、グレイ・フランネルのスーツを着て金融街で働くような、そんな硬い職業のゲイの男たちが集まる、当時としてはぶっ飛びの店。が、バーブラは店に行くまでそのことを知らなかった。この店でのオーディションを勧めたのは、出演者が昆虫の衣装を着て舞台を駆けめぐる『昆虫喜劇』(1960年5月)という、どうしようもない芝居への出演を通じて知り合った男だった。彼のアパートがたまたま、「ライオン」のはす向かいにあったのだ。
バーブラには歌の才能がある。その類まれな才能を最初に見出したのは彼で、「歌手として人前で歌うつもりなんてない」というバーブラを説き伏せ、「歌を一幕のドラマとして歌うべきこと」を熱っぽく説き続け、オーディションで成功させるためにあらゆる手助けを尽くしている。こうして二人はつかの間、燃え上がるような恋愛関係に陥っていく。
この1960年初夏の「ライオン」でのオーディションは後の語り草となっている。バーブラが1曲目を歌い終えたとき、会場はシーンと静まりかえり、ひと呼吸おいて、ものすごい拍手と歓声。次の曲を求める叫び声と足踏みの音が鳴り響いたという。2曲目の後もまた同じことになり、見事オーディションに合格、バーブラはこの店で、週50ドルで歌い始める。このとき彼女のレパートリーはわずか4曲! 4曲歌うと少し休み、また同じ曲を繰り返して数ステージを務めていたというから、大した度胸だ。
もっとも、歌う曲を仕上げるための演出は大変なもので、恋人との熱烈なやり取りを通して、ひとつひとつの歌を「一幕のドラマ」に仕立てあげるために、入念な準備を重ねている。芸能にひときはうるさいゲイの男たちが彼女の歌に感動した陰には、この凄まじい努力が隠されていたのだ。
歌の歌詞に込められた人生の断面を鮮やかに描き出すこと。歌に込められた主人公の心を、曲に乗せて聴き手に伝えること。一つ一つの曲は、一幕のドラマ。お芝居の演技で人を感動させるように、「歌というドラマ」で人を感動させること。恋人の熱烈な説得によって開眼した18歳のバーブラは、こうして歌手として重要な一歩を踏み出していく。
ところで、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーディションでバーブラの歌を3曲を聴いたマイルス・デイビスは、その歌に拍手をしながら、こう言ったという。「俺のバンドはあの娘の伴奏なんてやらないけど、ハービーに歌伴を頼むといいかもしれないな...」あのしゃがれ声が聞こえてきそうだ。ハービーとは、いうまでもなく、ハービー・ハンコックである。
もうひとつのエピソード。このヴァンガードでのオーディションを受けることになったきっかけは、当時この店で働いていたウェイターだった。彼がたまたま「ライオン」で彼女の歌を聴き、その歌声に驚いて、ヴァンガードでのオーディション参加を勧めたのだ。
そのオーディションから48年という長い芸能生活を経て、これまで特にお世話になった人たちを招いて行ったのが、この2009年9月26日の一晩だけの特別ライブだったのだ。そしてこの夜、一番最初に舞台に登場してショー開始の司会を務めたのは、その時のウェイターだった。なんというニクイ演出。
既に老齢に達した彼が、当時の様子を昨日のことのように語りながら、バーブラを観客に「紹介する」。こうして、この夜の特別なステージは始まる。古い恩人を忘れない。バーブラの義理堅さがうかがわれる、たとえそれが演出であったとしても。
この特別ライブは、バーブラにとって回顧と同時に、新たな出発を予感させる重要な転換点だと感じる。この特別ライブは"One Night Only"というタイトルの音楽ビデオとして、iTunesで購入できる。
中学1年生の時に六本木のレコード屋でバーブラの「クライ・ミー・ア・リバー」を聴かされて以来、その歌の魅力に取りつかれた私にとって、このミュージックビデオは、バーブラの最高作のひとつだ。
多少衰えた歌唱力。しかし、年齢を経た経験の積み重ねが、ドラマとしての歌を、これまでになく深いものにしている。ひとつひとつの歌詞が、言葉としての重みをもって、訴えてくる。
歳を取るのも、決して悪い話じゃない。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2011/7/10

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
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