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不定期連載『銀のつぶやき』
第26回「メディア革命」

2005/10/14

ごくたまに、図書館に行く。といっても、図書館の棚で本探し、ということは、ほとんどしない。事前にネットを通じて予約した本の、受け取りと返却に、行く。

公共図書館のサービスは、ひと昔前とは、様変わりしている。ネットで頼んだ本は、早ければ一日で、遅くとも数日の内には、入手可能だ。これだけでも驚きだが、それよりも、もっと凄いことがある。

図書館の入り口付近にコーナーが作られていて、かなりの数の本が山積みされている。そして、そこには「ご自由にお持ち下さい」と書かれている。図書館の利用者が、不要になった本を持ち込んでいるのだ。

ご丁寧にも、そこには、本の持ち帰り用にスーパーのレジ袋や紙袋まで、用意されている。至れり尽くせり。よく言えば、貴重な資源のリサイクル、悪く言えば、ゴミ捨て場。本の質を問わなければ、公共図書館は、本を借りる場所から一歩進んで、「本をタダでもらえる場所」になり始めている。

モノ余り、ということが言われ始めて、久しい。書籍については、これが極端だ。しばらく前まで、新刊書店と古本屋そして出版社、業界三者から揃って目のかたきにされていた「ブックオフ」は、こうした「モノ余り」状況にいち早く着目した、革新者だった。

ここでは、半年〜一年前に新聞に大きく広告が出ていたビジネス書が、「百円コーナー」にズラリと並んでいる。定価千五百円の本が百円。ということは実質、タダに等しい。鮮度だけが勝負、というビジネス書がそれだけ多い、ということだろう。

それにしても、自分の著書が、発売後一年を経ずして、この棚に並んでいたら、ちょっと悲しくなるのではないだろうか。「俺の本、百円なんだ。俺、百円なんだ。」著者の嘆きが、棚一面から聞こえてくる気がする。

子供の頃、本に足をのせたり、本を足げにすると、叱られた。本はモノであって、モノではない。いわば著者の人格が込められている、大切な何ものか。そういう特別なものとして、本は扱われてきた。人の思いを載せる、人の思想を載せる、その重みを、活字をとおして紙の上に載せる。そういう本が、本の主流を占めていたのだと思う。少なくとも、その頃までは。

テレビ放送が二十四時間になったとき、何かを伝えるためではなく、時間を埋めるために、番組が必要となった。同じようなことが、本の世界にも起きていた。多くの人が、それと気付かぬままに。

ブックオフの創業者は、その変化に、気がついていた。本はふつうのモノになった。もう神聖視は必要ない。「商売のやり方」という、誰の目にも見える行動によって、そう宣言した。だから、嫌われた。しかし、もはや、それを批判する声は、ほとんど聞かなくなった。

なぜなら、ブックオフは、新刊書の世界の光景を、その虚飾をはぎ取った上で、少し遅れて映し出す鏡にすぎないからだ。鏡に映る自分の像を見て怒る人は、あまり、いない。

ときどき行く、古本屋さんがある。私鉄沿線、特急も止まる駅から五分の好立地。歩く人の絶えることのない、にぎやかな通りに面している。店の外に、表紙のない文庫と新書が山ほど、並べられている。これが一冊、52円。五冊買うと、百五円。だからといって、飛ぶように売れるかというと、そんなことは、ない。一冊二十円だって、売れないものは、売れない。

先日ここで、立派な文学全集の中の一冊を買った。これがまた、52円。昭和三十年代に、新潮社から発行されている、日本文学全集のうちの一冊だ。開いてみればわかるが、おそらく一度も読まれることなく、まとめて処分されたものだ。全巻揃いで、店の床に積まれていた。

その52円を含めて、歴史関係を中心に、あれこれまとめて買ったら、四千円になった。両手で持ちきれないほどで、重量からしても、それ以上は運べない、という量だ。あまりのことに、レジで店の奥さんに、こう言った。

「こんなに安く、いい本が沢山買えて、何だか申し訳ない感じですね。いつも、ありがたい、と思ってます。」

そしたら、奥さんが、こう言った。「お客さんね、今は、ほんとうに本が売れないんですよ。文学書なんて、百円だって、売れないんですから。みんな、何読んでるんでしょうかね。」笑いながらも、その目は怒っていた。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この古本屋さんには、日本の近世詩歌関係の貴重な本が並ぶ棚がある。奥さんが「文学書」と呼ぶのは、ここに並ぶ本を指す。この古書店にとって、この棚こそ、意気地のありかだ。私の専門外だが、棚の書籍の個性がダントツなことから、一目でそれと、わかる。

当然ながら、ここに並ぶ本は、52円ではない。こういう本は、五千二百円でも、買う人は、買う。場合によっては、五万二千円でも、売れるだろう。ただ、実際に、その価格で買う人の数が、限られる。

だから、お金を前提とした「商売」としては、あまり面白みがあるとは、思えない。しかし、店主とすれば、意気地のありか棚に並ぶ本を、追い求めて買ってくれるお客さんが、わずかでもいてくれること、これが大きな喜びの一つ、であるはずだ。

小商売の面白みは決して、お金だけを基準にしては、判断できない。意気地を通す、意地を通す、そして、通す意地を理解して下さるお客様との、つながり。それがあるから、やり甲斐がある。お金だけじゃ、ない。

ところで、図書館で本がタダでもらえて、半年前に定価千五百円の本が、ほぼ確実に百円で買える、という事態は、間違いなく革命的だ。本をめぐるこうした事態は、モノ余りに加えて、メディア革命が進行中であることと密接な関係があると思う。

ほんのひと月半前、8月29日に掲載した「つぶやき第24回『ラジオ革命』」で触れたこと、これと同じ背景によって、もたらされている事態ではないだろうか。

あの一文を掲載してから、わずか、6週間。ポッドキャスティングはすさまじい勢いで爆発を続けている。昨日アップルは、iPod動画版を発表した。音楽とラジオ番組に加えて、新たに、映画とテレビのコンテンツが射程に入ってきた、ということになる。

ポッドキャスティングについては、すでに日本でも、ホームページと同じ程度の易しさで、「勝手放送局」を開設できるサイトが、目白押しとなり始めている。私が一ヶ月半前に書いた内容が、早くもアンティークになりつつある。革命期というのは、事態の流動的なること急流の如し、というが、今まさに、眼前の状況がそれにあたる、と思う。

音楽とラジオ番組に続いて、テレビ番組と映画。革命の波は今、この二つの大きな島をも飲み込もうとしている。次は、おそらく、雑誌と新聞ではないだろうか。

新聞も雑誌もテレビも、「現在」とは様変わりする。朝起きたら、必要な情報は、自分のパソコンに「宅配」されている。私が勤め人をしていた頃、いつか、そうした日がやってくるという「おとぎ話」を幾つかの仕事先で聞かされた。自分自身、プレゼン用に、そんな話を書いた記憶もある。しかし、本当にそうなるとは、思ってもみなかった。

マルチメディア・コンテンツとしての雑誌と新聞。音と静止画を組み合わせ、そこに文章を組み込む。詩人が自作を朗読する音声も載せられる。ちょっとした動画もある。そして、美を強く感じさせるレイアウト。時事やゴシップは、ミニリポートかうわさ話対談か、そんな形になるのだろうか。そして経済欄には、エクセルに落とし込めるファイル各種。

そうしたものを組み合わせたものが登場するのも間近な予感がする。問題は、ただ一つ。人がそれに、幾らお金を払うのか、という点だろう。というよりも、お金を払う人がどれくらい、いるのか、ということだろう。

新聞については、産経新聞がこの十月から、朝刊一ヶ月三百十円、というネットで読む新聞を開始している。一日十円。紙に印刷せず、宅配がなければ、一ヶ月三百十円という価格設定が可能、ということなのだろうか。それとも、試験的販売価格、ということなのか。これは、N.Y.Times電子版の価格よりも、大幅に安い。

さっそく申し込んで「遊んでいる」が、既存の紙面をそのままPC上で読ませる、という形式には大きな疑問を感じる。この点は、N.Y.Times(米)やThe Guardian(英)でも同じだが、三者比較すると、産経が一番読みにくく、The Guardianが一番、合理的で読みやすい。ソフトの出来がいいのだ。

しかし現状では各社とも、ホームページの方がずっと、いい。PC向けに作られていて、「使いやすい」のだ。お金を払って読む「有料電子新聞」よりも、無料のホームページの方が、「新聞」として読みやすい、というのは、大問題だと思う。これも、革命期の、移行期の混乱の一過程だろう。

PCで読む新聞は、既存の紙面を大胆に革新する構成にすべきだと強く感じる。「紙をめくって読む」という形式は一端、全否定して、ゼロから考えてみるべきではないだろうか。いずれにしても、「PC上で既存の紙面をめくりながら読む」という今の形が続くとは、到底思えない。

ところで、PC上の新聞が圧倒的に優れているのは、関連記事を瞬時に読めることだ。一つの記事に対して、どれだけの関連記事を準備できるのか。また、どういうものを、関連記事として提供するのか。記事の内容水準は別として、このあたりの編集力がたぶん、一流とそうでないものを分ける分水嶺になっていくのではないだろうか。などと、ちょっと、メディア評論家をやってみました。

それにしても、朝日新聞と読売新聞の二大巨頭、それにハイテクに強かったはずの毎日新聞は、なぜ、PC新聞を開始しないのだろうか。最も保守的な論調で知られる産経が、新技術への取り組みという点では最も先進的、というのも皮肉だ。一ヶ月半で、メディア環境が激変するこの時代、これから何が出てきてもおかしくない。多少不細工でも、新しい方向性に挑戦する方が、ずっと面白いと思う。

そして、ここまでくると、もはや、新聞と雑誌という区別も、読者の側からは意味がなくなりつつある、という気がする。実際しばらく前から、新聞が雑誌化し始めているように感じるのは、私だけだろうか。

ライブカメラで、ニューヨークやパリの生の情景がいつでも見られる時代だ。ケータイで動画を送りながら「ハーイ、バルセロナだよ。私の後ろに見えるのが、ガウディの教会だよ。こんどはノンちゃんと、来年一緒に来ようね。」なんて、気軽に言える時代だ。

そんな時代に、「ロンドン特派員」の「現地特別取材」などというのも、何だか、ずいぶんと古風に響く。その昔映画のコピーにあった「現地ロケ敢行カラー総天然色の文芸超大作」という言葉を思い出す。

私が骨董屋であることを思い出して頂きたい。骨董屋の目に古風に映る、ということは…。

 

さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。

2005/10/14

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この秋から冬にかけて、いろいろな場所で、少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会ができました。話の内容は様々ですが、基本テーマは一つです。

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