この古本屋さんには、日本の近世詩歌関係の貴重な本が並ぶ棚がある。奥さんが「文学書」と呼ぶのは、ここに並ぶ本を指す。この古書店にとって、この棚こそ、意気地のありかだ。私の専門外だが、棚の書籍の個性がダントツなことから、一目でそれと、わかる。
当然ながら、ここに並ぶ本は、52円ではない。こういう本は、五千二百円でも、買う人は、買う。場合によっては、五万二千円でも、売れるだろう。ただ、実際に、その価格で買う人の数が、限られる。
だから、お金を前提とした「商売」としては、あまり面白みがあるとは、思えない。しかし、店主とすれば、意気地のありか棚に並ぶ本を、追い求めて買ってくれるお客さんが、わずかでもいてくれること、これが大きな喜びの一つ、であるはずだ。
小商売の面白みは決して、お金だけを基準にしては、判断できない。意気地を通す、意地を通す、そして、通す意地を理解して下さるお客様との、つながり。それがあるから、やり甲斐がある。お金だけじゃ、ない。
ところで、図書館で本がタダでもらえて、半年前に定価千五百円の本が、ほぼ確実に百円で買える、という事態は、間違いなく革命的だ。本をめぐるこうした事態は、モノ余りに加えて、メディア革命が進行中であることと密接な関係があると思う。
ほんのひと月半前、8月29日に掲載した「つぶやき第24回『ラジオ革命』」で触れたこと、これと同じ背景によって、もたらされている事態ではないだろうか。
あの一文を掲載してから、わずか、6週間。ポッドキャスティングはすさまじい勢いで爆発を続けている。昨日アップルは、iPod動画版を発表した。音楽とラジオ番組に加えて、新たに、映画とテレビのコンテンツが射程に入ってきた、ということになる。
ポッドキャスティングについては、すでに日本でも、ホームページと同じ程度の易しさで、「勝手放送局」を開設できるサイトが、目白押しとなり始めている。私が一ヶ月半前に書いた内容が、早くもアンティークになりつつある。革命期というのは、事態の流動的なること急流の如し、というが、今まさに、眼前の状況がそれにあたる、と思う。
音楽とラジオ番組に続いて、テレビ番組と映画。革命の波は今、この二つの大きな島をも飲み込もうとしている。次は、おそらく、雑誌と新聞ではないだろうか。
新聞も雑誌もテレビも、「現在」とは様変わりする。朝起きたら、必要な情報は、自分のパソコンに「宅配」されている。私が勤め人をしていた頃、いつか、そうした日がやってくるという「おとぎ話」を幾つかの仕事先で聞かされた。自分自身、プレゼン用に、そんな話を書いた記憶もある。しかし、本当にそうなるとは、思ってもみなかった。
マルチメディア・コンテンツとしての雑誌と新聞。音と静止画を組み合わせ、そこに文章を組み込む。詩人が自作を朗読する音声も載せられる。ちょっとした動画もある。そして、美を強く感じさせるレイアウト。時事やゴシップは、ミニリポートかうわさ話対談か、そんな形になるのだろうか。そして経済欄には、エクセルに落とし込めるファイル各種。
そうしたものを組み合わせたものが登場するのも間近な予感がする。問題は、ただ一つ。人がそれに、幾らお金を払うのか、という点だろう。というよりも、お金を払う人がどれくらい、いるのか、ということだろう。
新聞については、産経新聞がこの十月から、朝刊一ヶ月三百十円、というネットで読む新聞を開始している。一日十円。紙に印刷せず、宅配がなければ、一ヶ月三百十円という価格設定が可能、ということなのだろうか。それとも、試験的販売価格、ということなのか。これは、N.Y.Times電子版の価格よりも、大幅に安い。
さっそく申し込んで「遊んでいる」が、既存の紙面をそのままPC上で読ませる、という形式には大きな疑問を感じる。この点は、N.Y.Times(米)やThe Guardian(英)でも同じだが、三者比較すると、産経が一番読みにくく、The Guardianが一番、合理的で読みやすい。ソフトの出来がいいのだ。
しかし現状では各社とも、ホームページの方がずっと、いい。PC向けに作られていて、「使いやすい」のだ。お金を払って読む「有料電子新聞」よりも、無料のホームページの方が、「新聞」として読みやすい、というのは、大問題だと思う。これも、革命期の、移行期の混乱の一過程だろう。
PCで読む新聞は、既存の紙面を大胆に革新する構成にすべきだと強く感じる。「紙をめくって読む」という形式は一端、全否定して、ゼロから考えてみるべきではないだろうか。いずれにしても、「PC上で既存の紙面をめくりながら読む」という今の形が続くとは、到底思えない。
ところで、PC上の新聞が圧倒的に優れているのは、関連記事を瞬時に読めることだ。一つの記事に対して、どれだけの関連記事を準備できるのか。また、どういうものを、関連記事として提供するのか。記事の内容水準は別として、このあたりの編集力がたぶん、一流とそうでないものを分ける分水嶺になっていくのではないだろうか。などと、ちょっと、メディア評論家をやってみました。
それにしても、朝日新聞と読売新聞の二大巨頭、それにハイテクに強かったはずの毎日新聞は、なぜ、PC新聞を開始しないのだろうか。最も保守的な論調で知られる産経が、新技術への取り組みという点では最も先進的、というのも皮肉だ。一ヶ月半で、メディア環境が激変するこの時代、これから何が出てきてもおかしくない。多少不細工でも、新しい方向性に挑戦する方が、ずっと面白いと思う。
そして、ここまでくると、もはや、新聞と雑誌という区別も、読者の側からは意味がなくなりつつある、という気がする。実際しばらく前から、新聞が雑誌化し始めているように感じるのは、私だけだろうか。
ライブカメラで、ニューヨークやパリの生の情景がいつでも見られる時代だ。ケータイで動画を送りながら「ハーイ、バルセロナだよ。私の後ろに見えるのが、ガウディの教会だよ。こんどはノンちゃんと、来年一緒に来ようね。」なんて、気軽に言える時代だ。
そんな時代に、「ロンドン特派員」の「現地特別取材」などというのも、何だか、ずいぶんと古風に響く。その昔映画のコピーにあった「現地ロケ敢行カラー総天然色の文芸超大作」という言葉を思い出す。
私が骨董屋であることを思い出して頂きたい。骨董屋の目に古風に映る、ということは…。
さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。
2005/10/14
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