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「アンティークシルバーの思い出」連載第5回


人間を主役に銀器と歴史を語る連載第5回目。フランスロココ銀器を大成した天才的な銀職人の親と、その子の波乱に満ちた人生をたどります。革命直前のフランス銀職人の世界とは。

 

不定期連載『銀のつぶやき』
第52回「マリー・アントワネット」

2007/2/18

「一人の女性として、もっと自由に生きてみたかったはず!」

ソフィア・コッポラ監督の新作『マリー・アントワネット』は、そう訴えかけてくる。お姫様を描く新鮮な視線がとても面白かった。

厚く積もったほこりの下にどうやら「悪女」と読める札が掛けられた歴史の鳥かご。そこにはマリー・アントワネットという名の一羽の小鳥が入れられている。その鳥かごから彼女を解き放ち、世界に向かって自由にはばたかせてあげたい、一人の若い女性として。それが監督のねらいではないかと感じた。

出だしのタイトルバック、ロックンロールが流れる意外性にまず、驚かされた。結婚が十代半ば。オーストリアはウィーンの宮廷から一人のお姫様がヴェルサイユへとお嫁入り。

今なら花の女子高生というお年頃。異国での窮屈な宮廷暮らしを我慢しろ、そう求めるほうが無理。マリー・アントワネットだって一人の若い女の子だったはず。監督の視点は徹底している。だから、なるほど、こんな感じもあったに違いないと、十分な説得力がある。

私は古い欧州銀器を専門とする骨董商だ。銀器は宮廷を一番の舞台として育ってきた工芸品だから、当然ヨーロッパの宮廷儀礼については昔からあれこれ調べてきた。そして、その過程で出会ったのがヴェルサイユという非常に興味深い一つの偉大な宮廷文化で、これについては今も、あれこれ調べを続けている。

興味のきっかけは銀器と宴席を調べることだった。ヴェルサイユ文化は、銀器で言えば、ロココ銀器に象徴される。華麗な銀器を使って行われた宴席儀礼の面白さ。これを調べていくと不思議なことに山ほど出会う。

こうして、いつしか、そんな銀器を生み出した、そんな銀器を使っていた人間達の、毎日が儀式の連続のような日常へと、私の興味は移っていく。

なぜ彼らは、あんな不思議なことを続けていたのだろうか。朝起きてから眠りにつくまで、プライヴァシーというものが基本的に存在しないような、王様と貴族達の、お芝居のような毎日の暮らし。いつだって誰かに見られている。そして誰かを見ている。誰もが役者であると同時に観客でもあるような日常。

演劇は舞台という非日常空間で演じられる「お芝居」だと言われる。が、ヴェルサイユでは、何が日常で何が非日常であるのか、どうにもはっきりしない。皆で揃って果てしのない芝居を演じている。洗練という名のヴェールに覆われた、偽りの中の真実、真実の中の偽り。そんな風に感じられる特別な歴史空間ヴェルサイユ宮廷の百五十年間。

かつては王をも恐れず戦場を駆けめぐった貴族達がなぜ、鬘(かつら)に白粉(おしろい)ときに口紅から付けボクロという、かくも軟弱なところまで女性化していったのか。如何にして反骨の牙は抜かれ、ひたすら儀礼に従順な、洗練された羊の群れとなっていったのか。

あまりの儀礼のやかましさに「どうしてそんなことしなきゃいけないの」と反発するお姫様に対して一言「それがヴェルサイユのやり方でございます」と傲然と言い放つ、お側付きの女官。その圧倒的な自信。「一つの偉大な宮廷文化を体現している」という、その自信が、この一言に集約されている。あなた様にも、この同じ文化を体現して頂かねばなりません。姫のお側に使えることになった女官の役割は、これを実現することに尽きている。

こうしてマリー・アントワネットは「王妃」という役割を演じる立派なヴェルサイユ宮廷人へと変身していく。果てしなく続く芝居のような毎日。しかし、終わりのない芝居というものは、ない。やがて「フランス革命」という名の終幕がやってくる。

「ベルばら」とは違って、この映画では、革命はほとんど描かれない。どこか遠くで何やら不気味な騒ぎが起きているらしい。そんな程度にしか、描かれない。パリでは民衆が騒いでいるらしい…。ヴェルサイユの女性たちにとって、おそらくそんな認識が実態に近かったのかもしれない。

そして有名なあのセリフ。「民衆が食べるパンがない、というなら、ケーキを食べればいいじゃない」言ってもいないセリフでレッテルを貼られる怖さと悲しさ、そして、あきらめ。彼女はそんなことを言う馬鹿な女性ではなかったはず、と映画はマリー・アントワネットを擁護する。

「フランス絶対王制」の象徴ヴェルサイユ。しかし、王妃様ばかりか、王様もまた実は「籠の鳥」だったのだ。錠前作りに熱中したというルイ16世は、実は自分をヴェルサイユという重苦しい文化空間から解き放つカギを探し続けていた、悲しい王様であったのかもしれない。

結局は、王も貴族もヴェルサイユという華麗な鳥籠に押し込められた籠の鳥だったのだ。見かけは華麗かもしれないけれど、籠を飛び出す自由は、ない。私が高校時代に世界史で習った「フランス革命」とはまるで違う、こんな図式が、新しい歴史学を通じて明らかになりつつある。

「絶対」という二文字によって縛られていたのは、民衆だけではなかった。貴族はもちろん頂点に君臨するはずの王様でさえ実は、この絶対王制という制度によって、がんじがらめに縛られた存在であった、という新しい視点。

この映画、靴もお洋服も髪型もインテリアも、そしてケーキも、現代ファッションの最良の部分が上手に取り入れられていると話題になっている。しかし決して、それだけではない。

コッポラ監督のこの映画、おそらくは原作の力なのだろう、意外な形で新しい歴史学の視点があちこちに取り入れられていると見た。「歴史解釈」という難しくなりそうなところを、美しい画面で上手に包んで見せる。今を生きるファッションとおいしそうなケーキという「見かけ」の下に、感受性の豊かなシャープな知性が息づいている。

加えて、いろいろな場面での音楽の選択がとてもいいと感じた。クラシックが使われる場面は例外的。アメリカン・スタンダードの使われ方、特に馬車が移動するシーンで延々と流れる「Fools Rush In」は、場面と歌詞がぴったりと合っていて印象的だ。シナトラがヒットさせ、プレスリーも歌ったこの曲が、今の感性で見事によみがえっている。

一人の若いお姫様。いや、女性。18歳なら誰だって、時には夜中まで飲んで踊って、少しアヴァンチュールを楽しんで、できれば地平線の向こうから昇ってくる太陽を見てみたいはず。観客に向かって監督は、「あなただって同じだったでしょ。マリー・アントワネットは自分が置かれた環境の中で、精一杯生きたひとりの女。そう思わない?」と訴えかけてくる。

きっと、これがフランス映画ではないことに涙するフランス人が山ほどいるのではないだろうか。今アメリカの方が、かつてのヨーロッパに近づきつつあるのかもしれない。実際私はこの映画を観て、一本の古いフランス映画を思い出していた。

ジャン=リュック・ゴダール監督の「気狂いピエロ」という大昔に観た作品だ。鮮烈度に差はある。けれど、なんとなく似ている。物事のとらえ方と表現方法が似ている、と感じた。その意味で、父フランシスより娘ソフィア・コッポラの映画の方が、ずっと私の感覚には合っている。これからの作品が楽しみだ。

それにしても、今の私たちは、マリー・アントワネットがかわいそうと思えるほど、それほど自由な日々を送ることができているのだろうか。知らないうちに籠の鳥になっているような気がするのは、果たして私だけだろうか。

 

きょうのお話は、ここまで。

面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。

2007/2/18

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2007年も、いろいろな場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。話の内容は様々ですが、基本テーマは一つです。

「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」

歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。

詳しくは→こちらへ。