2006/8/27
美しい銀器を探してあちこち歩き回っていると、思いもかけない出来事に出会うことがある。もう随分と以前のことだけれど、ロンドンの中心部を少し外れた、他に歩く人影もない、ちょっとさびれた一画の裏道を母と並んで歩いていたときのことだ。
その日は六月の爽やかなお天気の日で、時間は午後二時頃だったと思う。突然後ろの方から誰かが駆けてくる足音が聞こえたと思ったら、凄い勢いで褐色の肌の男が一人、我々の脇を突風のように駆け抜けていった。スニーカーにジーンズ、上はフードの付いたスウェットパーカーだったと思う。
唖然としてその男の走り去る後ろ姿を見つめる間もなく、再度後方から今度は、「Excuse Me! Excuse Me! = エクスキューズミー!エクスキューズミー!」と大声で繰り返し叫ぶ声が聞こえてきた。振りかえると、大男の制服警官が二人、これまたもの凄い勢いでこちらに向かって駆けてくる。
母と私は大あわてで歩道の端に寄って警官が駆け抜けるのを見送る。二人の警官は言うまでもなく、犯罪の容疑者を追っているのだ。東京でも、こんな経験は一度もない。それこそ生まれて初めてのことだったので、今も記憶が鮮明に残っている。
警官が走りながら犯罪の容疑者を追いかけるシーンなどというのは、映画やテレビで見ることはあっても、実際にその場に遭遇した経験のある人など、ごく僅かではないだろうか。それを目の当たりに見た我々は、ただただビックリして、「凄かったねぇー!危ないところだったね。この辺はやっぱり気を付けないといけねいねぇー」と間の抜けた顔を見合わせながら、風の通り抜けた後、しばしそこに立ちすくんでいた。
それにしても英国の警官は、犯人追跡の場面で通行人に注意を呼びかけるとき、「Excuse Me!」と叫ぶのだ。随分と丁寧ではないか。日本の警官なら間違いなく「どいて、どいて!ほら、端寄って!そこッどいてーっ!」と怒鳴る場面ではないだろうか。それが英国では「エクスキューズミー!」なのだ。
この「Excuse Me!」という言葉は場面に応じて、「ちょっと失礼」とか、見知らぬ人に呼びかけるとき「あのっ、ちょっとすいませんが…」という感じの呼びかけ語として使われるのが一般的だ。「警官が犯人を追いかけるとき、通行人に注意を呼びかける言葉」などという定義はたぶん、英和大辞典でも載っていないと思う。まさに暮らしの中で覚えた英語の一つだ。
もっとも、この言葉、これを覚えたからといって役に立つというものではない。なにより再び警官がこの言葉を叫ぶような場面に遭遇したいとは、決して思わないし、その意味では、「覚えても役に立たない英単語集」の筆頭に挙げてもいいかもしれない。
ところで、下の写真を見て頂きたい。実はこれ、この夏2006年7月中旬にロンドンのとある地下鉄の駅の入り口からすぐのところで私が撮影した一枚だ。一見、気楽な格好の仲間が集まって何か相談している風に見えなくもない。が、よーく目を凝らして一人一人の人物を見て頂きたい。すると、そう気楽でもないことが、だんだん見えてくるはずだ。

まず手前左側青白の横縞シャツで小太りの男をよく見て頂きたい。豊かな尻?そうじゃなくて、その尻の上、右脇下に何か吊り下げているのが見えるはずだ。ケータイ?とんでもない。これ、拳銃が収められたホルスターなのだ。えーっ、ひょっとして刑事さん?その通り。
この小太りの陰に隠れるように見える、片手にケータイもう一方の手にメモという、ちょい美人のブロンド、これも刑事さん。手前右側ケータイ片手の小太りも、もちろんお仲間だ。更には、あざやかなブルーのTシャツ胸に「Abercrombie And Fitch」とロゴの入ったお兄さん。こちらは、その脇に不安げな視線で立つ容疑者の身分証明を確認しているところなのだが、彼の腰元に注目して頂きたい。拳銃のホルスターらしきものと手錠がはっきりと見えるはずだ。
「Abercrombie And Fitch」はイギリスでも知られたスポーツウェアメーカーだそうで、しかし、私はこのロゴの前半「Abercrombie」という文字を見てビックリした。というのも骨董銀器の世界でこの言葉を聞けばそれは1文字違いで、ある銀器の装飾パターンが頭に思い浮かぶからだ。アバークロンビイ。そんなロゴ入りのTシャツを着た刑事に出会うというのも、アンティークシルバーのお導きかもしれない。
要するにこの写真に写っている5人のうち4人が刑事さんというか警察官なわけで、驚かされるのは、その格好の気楽さだ。この7月英国は、観測史上最高に暑い記録破りの7月となっていて、連日三十度を超す暑さだった。この写真を撮った日も、最高気温35度という日があったちょうどその頃だったと記憶する。
だから彼らの格好の気楽さは、当然といえば当然だし、この格好なら、拳銃のホルスターや手錠さえなければ、カムフラージュとしては完璧だ。私は彼らが警察の車輌から飛び出してくるところを目撃したので警官だとわかったが、そうでなければ警察官だとは、まず判断できなかったと思う。
2005年7月のテロ(7.07)以降、ロンドンの街を巡回する私服警官の数は大幅に増員されていると聞いた。オクスフォードストリートのような繁華街やシティ、主要駅はもちろん、土曜日のポートベローや大規模なイベント会場のように、不特定多数の人々が多数集まる場所も、彼らにとっては要注意箇所となっているようだ。私服警官の気楽な格好は、ロンドンの治安が気楽でなくなっていることを反映している。
幸か不幸かふだん日本で私服警官にお目に掛かる機会がないので判らないが、日本の警視庁にも、これくらい軽いノリの私服刑事さんがいたりしたら面白いなと思う。特にこのブロンドちょい美人なんて、こんな婦警ならぬ婦刑がいたら、「あの婦刑さんなら、ぜひ取り調べ受けたいッス。あの人になら全部しゃべってもいいッス。」なんて馬鹿が出てきそうだ。湾岸警察署?新宿鮫?いやいや、私は合田刑事にシンパシーを感じる。
ところで、この写真、背景の壁面に並んで見えるのは、銀行のATMだ。ATMの設置されている壁面は銀行のオフィスが入っている大きなビルで、その玄関脇で容疑者が簡単な尋問を受けているところなのだ。
では、一体この男、何をしでかしたのか。
どうやらこの容疑者は、銀行の前に停車中の警備保障会社の現金輸送車(下の写真左の青色の車。右は警察の車)から現金を強奪しようとしたらしい。その現場を警備会社のガードマンに取り押さえられて身柄拘束。警察の車輌が到着するまで、厳重に鍵の掛かる現金輸送車の荷室にぶち込まれていたのだ。
ちなみにここは交通量の多い大通りで、ご覧のように人通りも沢山ある場所だ。こんな所で現金輸送車の現金を強奪しようなんて考えるのは、どうかしているとしか思えない。

私が現場を通りかかったのは、ちょうどこの場所にパトカーがサイレンを鳴らしながら到着するときだった。横断歩道の真ん中に急停車した警察の車から、上の写真の4人の刑事が飛び降りてきて、現金輸送車の後部扉に向かう。と同時に輸送車の扉が開いて、中からこの犯人が引きずり出される。パッと容疑者を取り囲んだ刑事達は、彼をそのまま銀行の玄関脇へと引っぱっていき、そこで尋問が始まった。
それまで数少ない野次馬と一緒に事態をポカンと眺めていた私は、ここで大あわてでバッグからカメラを取り出して撮影した。それが最初の写真というわけだ。
古い銀器を探して街を歩き回っていると、こんな騒ぎに出会ったりもする。街を知るには、なんといっても、歩くのが一番だ。 |