2009/5/1
"a house is not a home"
「家」すなわち「家庭」にあらず。
アメリカのスタンダード・ナンバーの歌詞で、これを初めて聞いた時、なるほどなあと思った。まだ高校生で多感な時期だった。
そのとき思い浮かべたのは、アメリカ映画の光景だ。邸宅のような家の中で、冷え切った家族関係。アル中気味の母親。不在の父親。バラバラに暮らす家族。でも、日本じゃこういう感覚は、ないよな、と思った。
"a house is not a home"
家族がいなきゃ、家じゃない。
家の形をした建物があっても、そこに「家族」の暮らしがなければ、ホームすなわち家庭とは呼べない。ここで「家族」とは、絆(きずな)で結ばれた人たちのことで、絆がなければ、実の親子や兄弟であっても「同居者」にすぎない。

当時の日本では、その歌詞に歌われた感覚に、いまひとつ実感がなかった。私が高校生だから分からなかった、というだけではないと思う。「家族がバラバラの家庭」という感覚が、まだ一般化していなかった、そんな気がする。
もちろん、「冷え切った家族関係」なんて、江戸や明治の昔からあったに決まっているけれど、あくまで例外だったはずだ。今思えば、あの頃、家族はどこだって「濃密すぎる関係」が当たり前だったと思う。
親戚関係だって「本家・分家」なんて言葉が実感を持って語られていたし、田舎であれば、逃げ出したくなるほどうっとうしい人間関係の中で暮らす人が多かったはずだ。
しがらみから離れて都会に出る。わずらわされない気楽な暮らし。できれば爺さんも婆さんもいない、人の家の出来事に口をはさんでくる「やかましい近所のおばさん」もいない、気楽な暮らしがしたい。東京には、そんな暮らしがある。多くの人が、そんな夢を見ていたんじゃないだろうか。
"a house is not a home"
「家族がいなきゃ、家じゃない。」
今、この歌の短いフレーズの辛さは、誰にもよくわかる。濃密さのかけらもない、バラバラの家族。それが珍しくもなんともない国に、今の日本はなっているのだから。
古い話だけれど、大阪万博の頃が分水嶺だったのではないだろうか。なんかそんな気がするのだ。そのきっかけをいち早く映画を通してとらえたのが、山田洋二監督の『家族』(1970年)ではなかっただろうか。日本中で、こわれ始めていく何か。
同じ監督の『寅さん』シリーズ。「どっこいニッポン、どこに行っても人情は溢れているぜ」と「夢」を描きながら、盆と正月を飾り続けたドル箱路線の「夢映画」。「夢映画」は、現実を描かない。描きたくとも、描けない。盆と正月に、「現実」を忘れたいから、見に行くものなのだから。
胸の内で監督は叫びたかったはずだ「日本の家族なんて、実はとっくに壊れ始めているんだ。なんで皆それに気が付かないんだ。」と。その本音を、監督がさらりと描いたのが『家族』という作品だったのではないだろうか。
夢映画『寅さん』シリーズが興行的に絶頂期へと向かう時期に、『家族』は1970年キネマ旬報ベストワンに輝く。当時の「キネ旬」読者は、時代を読む目が鋭かった。高度成長の酔いが醒めはじめ、目立ち始めた歪みを一瞬忘れさせる役割を果たした大阪万博。
実際この頃から日本の家族は急速に変わっていく。共に食事をすることもまれになり、活動時間も異なり、めったに会話もない。会社中心主義の父親は家庭にいない。家庭内別居、家庭内独居、家庭内……があたり前の世界に。あっという間の三十年、いや四十年だった。

この連休明け5月16日から銀座テアトルシネマで
『夏時間の庭』という映画が公開される。先ごろフランス映画祭に代表団長として来日したジュリエット・ビノシュが大切な役柄で出演している。
映画に登場する主要な小道具の多くが、実はパリのオルセー美術館の収蔵品、ということでも話題の映画だ。骨董銀器商という特殊な仕事をしているということで昨年末、試写会を見せて頂いた。
日本と並んで恋愛中心主義のフランスで、しかし、家族はいつだって映画のテーマになってきた。『夏時間の庭』もその代表例のひとつだ。今移りゆくフランスの家族。時代の大きな変わり目の中で、家族の絆をどうつないでいくのか。深いテーマを淡い色彩の中で描いている。
家族が集い、思い出溢れる夏の庭。選び抜かれたモノを、暮らしの中でごく当たり前に使う母親とお手伝いさん。暮らしぶりを含めて、その豊かな洗練が心にくい、瀟洒な風情が一杯の家。
しかし、率直に言ってこの映画の「真の見どころ」は、
オルセー所蔵の美術工芸品なんかじゃない。まして、美しい庭でもなければ、瀟洒な家の風情でもない
"a house is not a home"
「家族がいなきゃ、家じゃない。」
モノがつなぐ、家と庭がつなぐ、
人間への、家族への想い。そして、絆。
それが映画の真のテーマだ。

そしてこの映画は、「モノの価値」とは一体なんなのかということを、深いところで考えるきっかけを与えてくれる。この考えが深まると、あなたは確実に一歩「豊かな気持ちで日常を楽しむ」という世界に近づくことができるはずだ。
ところで、こんなマイナーな作品を日本で配給するのがクレスト・インターナショナルという会社だ。今回初めて知ったことだけれど、この会社の配給作品には、なぜか私の好みの作品が揃っている。
たとえマイナーであろうとも、自分がイイと信じたものを紹介することで、なんとかこれをビジネスに結びつけていきたい。骨董銀器という超マイナーな世界を仕事とする私には、クレストのスタッフの気持ちが少しは、わかる気がする。
→『夏時間の庭』専用サイト
2009/5/1

■講座のご案内
2009年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。また、この4月号から新たに雑誌の連載エッセイがスタートしました。
大修館書店発行の月刊『英語教育』で連載タイトルが「絵画の食卓を読み解く」。絵に描かれた食卓を食文化史の視点から読み解きます。ぜひ、ご一読を。
というわけで、エッセイもカルチャーでのお話も、
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
|