2010/4/23
ル・クレジオという作家の名前を初めて聞いたのは大学生の頃だった。当時、現代フランス文学の若手の先頭ランナーという雰囲気で、その作品が次々と翻訳されていた。この作家のことを教えてくれたのは、恵子さんだ。なんだか熱に浮かされたような様子で「クレジオ、クレジオ」と名前をつぶやきながら、遠くを見つめるような目をしていた。彼女がそんなにいいというならと、結構高い本を買って読んでみた。ちっとも、ピンとこなかった。フランスの現代文学はムズカシイ、そんな印象が残っただけだった。
以来ずっと忘れていたこの名前は、いまや超有名になった。ノーベル文学賞受賞! そのインタビューを最近ネットのラジオで聞いた。ル・クレジオがゲストで、いろいろな参加者からの質問に直接答えたりしながら進行するという、参加型のインタビュー番組だ。意外なことにル・クレジオは、多少フランス訛りの感じられる、きちんとした英語で受け答えしていた。その話し方、声の雰囲気が素晴らしい。
私はラジオ人間として育ったので、人間の声には耳が敏感に反応する。クレジオは、その声と話し方が、非常に魅力的で、自作の一部をそこで朗読したとき、それはひとつの世界になっていると感じた。文声一致。ひとつの境地だ。まるで、詩の朗読を聞いているかのようだった。
クレジオの作品には、砂漠とか洪水とか、出てくる。奥さんはベドウィンの族長の娘だとのことで、だから砂漠の文化については、奥さんの話をいろいろ聞いて、砂漠を渡る人間の心理を知ることができたと言っていた。そして、一番興味深いと思ったのは、「自分は根無し草」だと強調していたことだ。
実際彼の経歴を見れば、この作家をして「フランス人」とか「イギリス系フランス人」とか「フランス系モーリシャス人」とか「ブルターニュ系フランス人」などなど、どんなふうにでも呼ぶことが出来そうだ。もっといろいろな呼び名を付けるこだってできるだろう。けれど、そんな「属性」はほとんど意味がない、ということになりそうだ。
一カ所に留まらない。
ベドウィンもまたそうだと彼は言う。
「砂漠を渡るベドウィンも、僕も、結局は、どこへとも知れずさまよっていく存在。だからこそ、世界が見えるというところがあるかもしれない。きっとこれからも、ずっとそうなのではないか...」
みたいなことを、わずかにフランス訛りの、ムダのない、とてもわかりやすい英語で、静かに語るル・クレジオ。やけに格好いい。格好良すぎる!
インタビューの会場に電話で遠方の女性から質問が入る。それに静かに答えるル・クレジオ。質問者からの声が一瞬途切れる。インタビュアーが「電話聞こえてますか?」と質問者に問いただす。「大丈夫です、まだなんとか卒倒しないで済んでます」(あまりに素敵で気を失いそう、という意味)と答える女性。ル・クレジオは女にモテル。ものすごくモテル男だと思う。だいたい女性のインタビュアー自身、声がうわずっている。
その昔、日本人の女性翻訳者が、この作家と「すてきな一夜」を過ごしたことがると、ご本人が最近のエッセイで、そう告白していらっしゃると聞いた。そりゃ、さぞ素敵な一夜だったことだろう。
この作家のことを教えてくれたのは、恵子さんだ。なんだか熱に浮かされたような様子で「クレジオ、クレジオ」と名前をつぶやきながら、遠くを見つめるような目をしていた。それからひと世代が経過して、ル・クレジオは今年、七十歳になる。なのに、今も、女性を卒倒させかねないほどの魅力を放っている。
今になって、やっと、恵子さんが夢見た気持ちが、少しだけわかってきたような気がする。そして、おなじく、なぜ自分がモテない男だったのかが、少しずつわかってきた。さいわい七十歳までは、まだ、しばらく、ある。せめて、あの「話し方」の万分の一でも、自分のものにしてみたい。
「銀のスプーンの、このアザミの模様。これには遥か時空を超えて古代ペルシアへとつながる長い物語があるのさ。海を渡り、砂漠を越え、男たちが闘いながらたどった長い道を経て、今ここにある二百年前の銀器に、その痕跡が刻まれている。こういう物に心ひかれるっていうのは、結局、僕の心の中に海や砂漠への遠い記憶が秘められているからかも知れない...」とかなんとか言いながら、遠くをみつめてみる。だめだ、こりゃ。
百万分の一も、ル・クレジオには近づけそうに、ない。
それにしても、井上ひさしさん、とても残念です。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2010/4/23

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社、定価 \2,100-、10月23日発売
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2010年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。また、この4月号から新たに
大修館書店発行の月刊『英語教育』での連載が2年目に入ります。欧州の食世界をさまざまな視点から読み解きます。ぜひ、ご一読を。
というわけで、エッセイもカルチャーでのお話も、
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
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