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「アンティークシルバーの思い出」連載第6回


銀器の歴史に秘められた
人間ドラマを語る連載第6回。
フランスでの弾圧を逃れて

英国に逃げたユグノーの

銀職人たちが、苦労の末に

ロンドンで活躍を始めるまでの

苦難の足跡をたどります。

 

不定期連載『銀のつぶやき』
第56回「石見銀山」

2007/5/13

  以下の文章は、5月13日の時点で書かれたものです。その点を念頭にお読み頂きたいと思います。6月28日に、大方の予想を覆す形で見事、「石見銀山」世界遺産登録への道が開かれたことは、既に皆様ご承知の通りです。骨董銀器商として、また、日本人の一人として、心からこの出来事を嬉しいことだと思います。

■■■
昔から「石見銀山」と言えば、「猫いらず」(ネズミ退治の薬)として知られていて、この言葉を聞いて「銀鉱山」を思い浮かべるという日本人は、とりわけ東日本では、それほど数が多くはなかったはずだ。その意味では、「佐渡の金山」と聞いて誰もが「金鉱山」を思い浮かべてきたのとは、ちょっと話が異なると思う。

私の場合「佐渡の金山」と聞けば、「水戸黄門」のような時代劇で「佐渡送り」などというセリフが語られるシーンが頭に浮かび、「弥七」や「お銀」が悪代官の屋敷にこっそり忍び込む姿が目に映ったりするのだが、それは私がかつて山ほどの時代劇を見て育つという幸福な子供時代を過ごしたためかもしれない。

銀器専門の骨董商として仕事を始めるようになって今年で19年目になる。断言してもいいが、その19年前「石見銀山」という言葉を聞く機会は、ほとんどなかった。それがまるで突然のことのように、新聞などでその名称を目にすることが多くなったのは、ここ十年、いや、特にこの五〜六年のことではないだろうか。もちろん、「石見銀鉱山」としてである。

僅かこの十年足らずの間に、言葉の意味の上で「石見銀山」は、「猫いらず」から「銀鉱山」へと、そのイメージが変化した。その背景には国連の世界遺産登録をめざす様々な動きがあり、そして、それに関する報道が続く過程で多くの日本人は、忘れていた石見銀山を「再発見した」ということになりそうだ。

日本の銀山は何も石見銀山だけではない。生野銀山や院内銀山もまた江戸時代から知られるところであって、しかし、こうした銀山の名称をさして考えることなくパッと頭に思い浮かべることの出来る人は、少数だろう。

もし今から19年前に「日本の代表的な銀山の名前を三つ挙げて下さい」というアンケート調査をしたとするならば、一つも挙げることができない、という人が9割を占めたに違いない。それくらい「銀鉱山」というものは、それが銀山のある地元でもない限りは、第二次世界大戦後の日本人にとって縁が薄い存在だったように思われる。

今回、石見銀山の世界遺産登録が見送られそうだという。日本人の一人として、そして、銀器専門の骨董商として、誠に残念なことだと思う。ただ、今回の動きは話がちょっと急ごしらえではなかったか、という印象が私には、ある。池波正太郎風に言うならば「急ぎ働き」だったのでは、と言ったら叱られるだろうか。それまで長い間銀山のことなど忘れてそっぽをむいていたのに、それ世界遺産登録だというので、突然みんなが大事にし始めた。なんか、そんな感じがするのだ。

銀というものには、非常に興味深い歴史が背景に隠されていて、銀を中心に世界史を書くことが出来るほどだ。銀山で採掘された銀鉱石が、古代ローマ人のスプーンとなって、一枚の銀貨となって、刀剣の装飾となって、美女の腕輪となって、ヴァイキングの首輪となって、西鶴の語る言葉となって…、という具合に、そのイメージの射程は果てしもなく遠くまで広がっていく。

そうした壮大な世界の一隅に、石見銀山は存在している。大内氏や尼子氏が石見銀山の争奪に命を賭けていた、あの戦国の世から既に石見の銀は、世界の交易ネットワークに組み込まれていた。このあたりのことについて「ごく簡単に知りたい」というならば、村井章介先生の『海から見た戦国日本―列島史から世界史へ』(筑摩書房、ちくま新書127、1997年)の第5章「日本銀と倭人ネットワーク」をお読みになるといい。村井先生は今たしか法政大学で教えていらっしゃると思うが、僅か新書40頁というスペースで要点が尽くされている。

そして、この壮大な交易ネットワークの向こう側には、世界史的な意味で石見に負けず劣らず重要な、ポトシやヨアヒムシュタレールなど、単に銀鉱山の大きさというだけではなく、人々の政治や文化に大きな影響を与えたという意味での「銀山の大物」があちこちに存在しているのだ。

敢えて言わせて頂くと、今回の石見銀山をめぐる様々な報道では、この壮大なネットワークからの視点が決定的に欠けていた、という気がする。欧米人の一部が大昔から銀に向けてきた関心は、日本では想像も出来ないほどの深みがある。これを反映して、銀に関する研究も、十六世紀頃からの分厚い集積があって、銀山開発から経済変動そして古銭学から工芸美術に至るまで、銀をめぐる専門書については大きな山脈が幾つも連なっている。かえりみるに日本では、どうだろうか。

石見銀山を単に「銀鉱山」という視点でしか見ることが出来ないとするならば、それほど悲しいこともないだろう。銀という金属によって象徴される歴史と文化の世界、その大きな世界との関連で石見銀山や生野や院内を見るとき、はじめて、その面白さが見えてくるのでは、という気がする。

よく考えてみると、石見銀山には世界史的な意味で、極めてユニークな存在だと言える点がある。大変な産出量があったはずなのに、そこで掘られた銀は、一体全体、どこに流れて行ったのか。この一点に集中して研究をしていくと、ある意味での日本人論を語ることが出来るはずだ。

今回のちょっと残念な出来事をきっかけとして、もう少し多くの日本人に、銀という世界に関心を持って頂ければと思う。そして、銀山開発から工芸美術に至るまで、銀に関する日本での地道な研究の集積が充実した山を築き始めたとき、そうなったときに初めて、日本から世界に向けて力のある「銀のメッセージ」を発信できるようになるのではないだろうか。いつか必ず、そういう日がやってくる、日本人の一人して、そして、銀器を専門とする骨董商として私はそう、願っている。

今回の「つぶやき」は、ちょっと大上段に構えてしまったかもしれませんね。でも、話の対象が何といっても「国連世界遺産登録」ですから。

ところで、最近、更新の頻度が落ちてますねえ。三月四月と、いろいろありまして、ようやくこれが、一段落し始めたところです。もう新緑の季節かと、この2ヶ月の早さを今思っています。

きょうのお話は、ここまで。

面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。

2007/5/13

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「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」

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