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不定期連載『銀のつぶやき』
第6回「銀と銀貨と交易と」








2004/07/18 

 場所はシリアのトリポリ。バザール(スーク)の店先に腰を下ろして、店主と話をしていたら、そこに一人の男がやってきた。その男は、競売で入手したという銀を、皮袋から取り出して見せてくれた。細かく切断された様々な形の銀の切れ端に交じって、幾種類かの銀貨が見え隠れしている。

その中に、外周にヤスリをかけて丸く形を整えたディルハム銀貨があった。手に持ってみるとコインとしては重みを感じる。5グラム近い重さがあるのは間違いない。片面には牡牛の像が、もう片面には、鞍(クラ)と轡(クツワ)をつけた馬に乗った騎者の像が、きわめて見事に描かれている。そして、両面ともに、私には判読できない文字が刻まれていた。一目で気に入ったので、私はその男から、それらの銀をまとめて買い取った。

後日その銀貨を、知人の外国人に見てもらった。勉強家で、広く旅をしている男だ。彼はそれを見て、意外なことを教えてくれた。「この銀貨なら知ってるよ。これはインドのコインさ、この刻印は。ガズナに行くと、この銀貨が広く流通していて、これさえあれば、買い物に困ることはないはずさ。」

上:水パイプにバックギャモン
近世の写真ですが、

何となくこんな雰囲気ではなかったかと。


 出だしの文章は、現代の話ではありません。大昔にイスラム圏で広く読まれた、ディマシュキーという人が書いた商売の手引き書の一節です。佐藤圭四郎という偉い学者さんが、ある論文(注1)(注2)の中で、この文章を引用しています。僭越ながら、私が多少脚色して、より読みやすい形に書き換えています。


この文章の要点は、次の一点にあります。 今からおよそ一千年前、ガズナ朝が繁栄した時代に、現在のインド北部で造られた銀貨が、はるばる、レバノンのトリポリにまで運ばれてきていた。この一点です。銀は古くから、お金として流通してきました。九百年前という昔でも、場合によっては、数千キロを旅することも珍しくなかった。銀を仲立ちとして、それだけ盛んに交易が行われていたという、そのことに注目して頂きたいのです。

大昔の文章なので、少し言葉の説明が必要ですね。「シリアのトリポリ」というのは、今のレバノンのトリポリのこと。「ガズナ」は、現在のアフガニスタンの首都カブールから南西150kmの位置にある古い都市ガズニ。アフガニスタンに興ったトルコ系イスラム王朝(977‐1186年)の名称でもあります。ガズナ朝は最盛期には、イラン中央部からインドのパンジャブに至る広大な版図を支配したことで知られます。なお、 「ディマシュキー」という人名には、「ディマシュク=ダマスカスの人」という意味が含まれるようです。

ところで、文中の「細かく切断された様々な形の銀の切れ端」という表現は、私が考えたもので、佐藤先生の文では「碎銀」という言葉が使われています。この文脈で「碎銀」をどう解釈するか、かなり難しいところですが、敢えてこのように書き換えてみました。佐藤先生からは、きついお叱りを受けるかもしれません。

「細かく切断された様々な形の銀の切れ端」とは一体何を意味するかというと、銀塊を切り刻んで「お金」として使用したことを意味します。この目的で、銀のブレスレットやネックレスの一部を切り取ることも広く見られた行為です。例えば、九〜十世紀頃の欧州の退蔵銀、すなわち隠された宝の中には、こうした切断された銀片が含まれる例が少なくありません。その実例は、ヨーロッパ各地の博物館で、いくらでも目にすることが出来ます。

取引の金額に応じて、銀を削り、重さを量ることで、支払いの手段とする。江戸時代の日本でも、大阪経済圏を中心に日常的に行われていたことで、銀の貨幣の一大特徴です。これを固い言葉で「秤量貨幣」と呼びます。文字通り秤(ハカリ)で量る。だからこそ古来、銀は純度が重視されてきた。これが、銀の目利きを重要な仕事とした両替商誕生の原点です。

話が長くなるので、ここで詳しく触れることはできませんが、実は、この時代のイスラム世界の銀と、後に西ヨーロッパで展開する銀器の世界とは、強い絆で結ばれています。当時の世界はまだ、より豊かで先進的なイスラム文明圏と、どちらかと言えば野蛮で遅れた西ヨーロッパ圏という構図です。銀器工芸の面からも、銀を中心とする貨幣制度の面からも、この時点の西ヨーロッパは、より先進的なイスラム圏(及びビザンツ圏)から大きな影響を受けたことは間違いありません。その様相を示す様々な事実には、とても興味深いものがあります。例えば、「銀のつぶやき」第135回「銀ざくざく、ヴァイキング1ご一読下さい。

それにしても、インド北部からレバノンまで、それだけの遠距離を、どんな道筋をたどって銀貨は運ばれていったのでしょうか。お金ですから、次から次へと何かに替えられることで、西へ西へと人手を通じて、移動していったものに相違ありません。千頭を超えるラクダを率いて月の砂漠を渡る隊商の列。野越え山越え、ひたすら荷を運ぶ男達。時には風に帆かけてインド洋を渡る、冒険船乗りシンドバッド。古くからイスラム世界に伝わる様々な旅行記を読むと、そんな光景が浮かんできます。そう、気分はもう、イブン・バットゥータ!

左:レバノンのバザール

これまた近世の写真ですが、秤(ハカリ)が備えられているのが見えます。いかにもこんな所で銀の取引が行われたかもしれないという感じ。

私も、あの真ん中の椅子に腰掛けて、彼らを相手に銀の取引をしてみたい思いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀器の歴史をたどっていくと、工芸品としての銀器のデザインや装飾の技法をたどるだけでは、どうしても理解できない様々な事象にぶつかることになります。多くの場合、それらの事象は、銀のもう一つの側面、すなわち「貨幣としての銀」ということに着目すると、疑問が氷解することが珍しくありません。

その意味で「貨幣としての銀」=「銀貨」の歴史をたどることは、とても重要な意味があります。というのも、交易を通じて銀を集積することが出来た都市に初めて、いい銀器が生まれる素地が用意されてきた、という歴史があるからです。この側面に触れることなしに、銀器の歴史を語ることはできません。

要するに、銀食器の歴史は、銀貨の歴史と表裏一体の関係にある、ということです。銀メッキの品が、銀器の世界でちょっと脇に置かれてしまうのも、銀メッキでは、この「銀器」=「銀貨」という、銀器の歴史にとって最も重要な関係が成り立たないからです。

中世ヨーロッパの貴族階級の食卓で銀器は、陶磁器の皿がテーブルに登場するはるか以前から、最も重要な食器として、特別な位置を占めてきました。銀器には、家の紋章を刻んで永く後代に伝えていく。家門の誇りと永続性そして豊かさを象徴する道具としての役割も担ってきました。純銀であって初めて、家の永続性を象徴しうること、いうまでもありません。

また単なる「象徴」としての意味合いだけではなく、「イザ」というときには、その銀器によって家の危急を救う役目、すなわち一種の保険財産(=退蔵銀貨)としての役割が隠されていました。すなわち、「銀器」=「銀貨」という等式の世界の一コマです。

実際、様々な場面で彼らは、銀器を手放すことになります。それはフランスの「太陽王」ルイ14世から、第二次世界大戦末期の東欧の貴族に至るまで、実に興味深い実例に溢れています。こうした歴史を追いかけていると、銀器の歴史もまた、人間の歴史なのだと、その面白さが一段と深くなることを感じます。

ところで、このような銀の世界の二つの側面は、共に、一つのものから生み出されます。銀の工芸品も、銀貨も、その素材は、銀塊(ギンカイ)です。銀塊がなければ、銀器を造ることは出来ません。では、素晴らしい銀器を生み出した地域では、一体、どこからその材料となる銀を入手したのでしょうか。これには大きく分けて三つの道筋があります。

一つは、領域内に、有力な銀山のある場合。もう一つは、銀山とは関係なく、交易を通じて多量の銀を集積することのできた例。そして最後が、戦争(占領略奪・属国化による収奪を含む)によって銀を獲得したケース。

銀山のある地域の都市では必ず、銀貨が発行されます。こうした都市では、その銀貨によって他の地域からモノを購入することで豊かになっていきました。銀山のない領域の場合には、古くから交通の要衝に位置していて、領主が商売上手で、大きな交易市場を保護育成したような都市が、交易を通じて蓄積される金と銀によって、豊かになっていきました。戦争を別にすれば、いずれも、「交易」がキーワードになります。

というわけで、銀器の歴史をたどることは、必然的に、交易の歴史をたどることにつながります。冒頭の文章にあるように、古くから銀は、交易を通じて、地球規模で旅をしてきました。そうした旅の痕跡が、今も銀器の世界には、いろいろな形で残っています。例えば、銀器の世界で何気なく使われている言葉の影に、こうした古い旅の歴史が隠されていることが少なくありません。

その具体例を挙げるとするならば、「ドル」や「ポンドスターリング」など通貨の呼び名や、重量を示す単位の呼称などに、いくらでも古い痕跡を見い出すことが出来ます。そうした痕跡を手がかりにして、ちょっとその下を掘り起こしてみる。すると、とても豊かな歴史世界が目に見え始める。銀の歴史をたどる面白さの源泉が、ここにあります。

→それがどんな面白さか知りたい方は、「銀のつぶやき」第14回「トロイオンスとシャンパーニュ」を読んでみて下さい。

交易とは、基本的に、モノとお金、モノとモノが交換される過程です。でも、その過程で交換されるのは、それだけにとどまりません。より優れた文物に対する人間の果てしない憧れ、モノつくりの技術と意匠感覚、モノを利用する生活の習慣などもまた、これに伴って「交換」されてきました。古くから正倉院御物を目にしてきた我々の先祖たちは、あのすばらしい工芸品の彼方に、遙か離れた異国に花開いた、夢のような進んだ文化を思い描いたに違いありません。

銀は、時に美しい工芸品として、また時に、銀貨という、より具体性を持った交換手段として、常に異文化を結ぶ交易の最先端に位置してきました。こうした大きな地図が見え始めると、銀器の世界がそれまでとは全く違って見えてきます。銀の旅路の痕跡をたどることの面白さには、限りがありません。銀器を専門にする者の一人として、心からそう、思います。

 

下写真:レバノン山岳地帯。
  絹糸の原料である、繭の取引の様子。絹と銀との交換といえば、シルクロードが思い浮かびます。絹の製法が西へ西へと拡散した結果、こんな場所でも、絹は銀と交換されるに至ったわけです。
  写真は百年少し前のものらしいのですが、当時レバノンでは、繭を解き、糸を紡ぐ過程の労働は、子供達が中心であったようです。なお、レバノンでこの頃急速に発展した養蚕は、現代にまで尾を引く複雑な政治状況の産物で、養蚕で得た資金で、有力部族長は競って武器を購入していたといいます。歴史は繰り返しているのかもしれません。

(注1) 
佐藤圭四郎 「西アジアにおける金銀の流通量とユダヤ商人----特に十、十一世紀における」(『田村博士頌寿東洋史論叢』1968年に所収


(注2)

 (細かいことですが、正確を期すために)
  インド貨幣の専門書によると、西暦1028年にガズナ朝最盛期のスルタン、マフムード(在位998-1030)の下、ラホール(パンジャブ)で発行されたディルハム銀貨には、牡牛と騎士の像は描かれていない。アラビア文字の初期技巧書体であるクフィック体(注3)で、マフムードへの讃辞が刻まれているのみ。

  牡牛と騎士の図が描かれているのは、マフムードの後裔である王達が、同じくラホールで発行した、ビロン貨と呼ばれる低品位合金貨である、とのこと。

  コインの正確な説明という点では、こちらの記述の方が圧倒的に信頼できる。しかしそのことは、(注1)で引用された文章が持つ重要な意味を、いささかも減ずるものではない、と考えます。

(注3)

「クフィック体」というのは、「クーフィ体」とも呼ばれ、元々は「クーファ」という町の名に由来する。現在のイラクの古い町であり、アッバース朝(750〜1258)初代カリフが自己の正当性を最初に宣言した場所。宗教文化都市として歴史的な役割を果たしてきた。ユーフラテス川沿岸に位置し、イラク報道によく出てくる「ナジャフ」に隣接する。

  →銀の旅路を追いかけていると、こんなところにまで、たどり着いたりします。世界は、不思議な糸で結ばれているのです。

 久しぶりの更新というのに、今回のお話は、ちょっと固すぎる内容でしたね。でも、銀器の歴史にとって、基本的に大切な部分なので、敢えて触れてみました。

さて、今年後半の講座の予定が、決まり始めました。講座タイトルの示すとおり、銀器と食卓が中心テーマです。昨年までとは違うアプローチで、お話をしてみたいと思っています。興味ある方は、是非、講座に足をお運び下さい。

銀器講座のご案内です。

さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。

2004/7/18