銀器の歴史をたどっていくと、工芸品としての銀器のデザインや装飾の技法をたどるだけでは、どうしても理解できない様々な事象にぶつかることになります。多くの場合、それらの事象は、銀のもう一つの側面、すなわち「貨幣としての銀」ということに着目すると、疑問が氷解することが珍しくありません。
その意味で「貨幣としての銀」=「銀貨」の歴史をたどることは、とても重要な意味があります。というのも、交易を通じて銀を集積することが出来た都市に初めて、いい銀器が生まれる素地が用意されてきた、という歴史があるからです。この側面に触れることなしに、銀器の歴史を語ることはできません。
要するに、銀食器の歴史は、銀貨の歴史と表裏一体の関係にある、ということです。銀メッキの品が、銀器の世界でちょっと脇に置かれてしまうのも、銀メッキでは、この「銀器」=「銀貨」という、銀器の歴史にとって最も重要な関係が成り立たないからです。
中世ヨーロッパの貴族階級の食卓で銀器は、陶磁器の皿がテーブルに登場するはるか以前から、最も重要な食器として、特別な位置を占めてきました。銀器には、家の紋章を刻んで永く後代に伝えていく。家門の誇りと永続性そして豊かさを象徴する道具としての役割も担ってきました。純銀であって初めて、家の永続性を象徴しうること、いうまでもありません。
また単なる「象徴」としての意味合いだけではなく、「イザ」というときには、その銀器によって家の危急を救う役目、すなわち一種の保険財産(=退蔵銀貨)としての役割が隠されていました。すなわち、「銀器」=「銀貨」という等式の世界の一コマです。
実際、様々な場面で彼らは、銀器を手放すことになります。それはフランスの「太陽王」ルイ14世から、第二次世界大戦末期の東欧の貴族に至るまで、実に興味深い実例に溢れています。こうした歴史を追いかけていると、銀器の歴史もまた、人間の歴史なのだと、その面白さが一段と深くなることを感じます。
ところで、このような銀の世界の二つの側面は、共に、一つのものから生み出されます。銀の工芸品も、銀貨も、その素材は、銀塊(ギンカイ)です。銀塊がなければ、銀器を造ることは出来ません。では、素晴らしい銀器を生み出した地域では、一体、どこからその材料となる銀を入手したのでしょうか。これには大きく分けて三つの道筋があります。
一つは、領域内に、有力な銀山のある場合。もう一つは、銀山とは関係なく、交易を通じて多量の銀を集積することのできた例。そして最後が、戦争(占領略奪・属国化による収奪を含む)によって銀を獲得したケース。
銀山のある地域の都市では必ず、銀貨が発行されます。こうした都市では、その銀貨によって他の地域からモノを購入することで豊かになっていきました。銀山のない領域の場合には、古くから交通の要衝に位置していて、領主が商売上手で、大きな交易市場を保護育成したような都市が、交易を通じて蓄積される金と銀によって、豊かになっていきました。戦争を別にすれば、いずれも、「交易」がキーワードになります。
というわけで、銀器の歴史をたどることは、必然的に、交易の歴史をたどることにつながります。冒頭の文章にあるように、古くから銀は、交易を通じて、地球規模で旅をしてきました。そうした旅の痕跡が、今も銀器の世界には、いろいろな形で残っています。例えば、銀器の世界で何気なく使われている言葉の影に、こうした古い旅の歴史が隠されていることが少なくありません。
その具体例を挙げるとするならば、「ドル」や「ポンドスターリング」など通貨の呼び名や、重量を示す単位の呼称などに、いくらでも古い痕跡を見い出すことが出来ます。そうした痕跡を手がかりにして、ちょっとその下を掘り起こしてみる。すると、とても豊かな歴史世界が目に見え始める。銀の歴史をたどる面白さの源泉が、ここにあります。
→それがどんな面白さか知りたい方は、「銀のつぶやき」第14回「トロイオンスとシャンパーニュ」を読んでみて下さい。
交易とは、基本的に、モノとお金、モノとモノが交換される過程です。でも、その過程で交換されるのは、それだけにとどまりません。より優れた文物に対する人間の果てしない憧れ、モノつくりの技術と意匠感覚、モノを利用する生活の習慣などもまた、これに伴って「交換」されてきました。古くから正倉院御物を目にしてきた我々の先祖たちは、あのすばらしい工芸品の彼方に、遙か離れた異国に花開いた、夢のような進んだ文化を思い描いたに違いありません。
銀は、時に美しい工芸品として、また時に、銀貨という、より具体性を持った交換手段として、常に異文化を結ぶ交易の最先端に位置してきました。こうした大きな地図が見え始めると、銀器の世界がそれまでとは全く違って見えてきます。銀の旅路の痕跡をたどることの面白さには、限りがありません。銀器を専門にする者の一人として、心からそう、思います。
下写真:レバノン山岳地帯。
絹糸の原料である、繭の取引の様子。絹と銀との交換といえば、シルクロードが思い浮かびます。絹の製法が西へ西へと拡散した結果、こんな場所でも、絹は銀と交換されるに至ったわけです。
写真は百年少し前のものらしいのですが、当時レバノンでは、繭を解き、糸を紡ぐ過程の労働は、子供達が中心であったようです。なお、レバノンでこの頃急速に発展した養蚕は、現代にまで尾を引く複雑な政治状況の産物で、養蚕で得た資金で、有力部族長は競って武器を購入していたといいます。歴史は繰り返しているのかもしれません。

(注1)
佐藤圭四郎 「西アジアにおける金銀の流通量とユダヤ商人----特に十、十一世紀における」(『田村博士頌寿東洋史論叢』1968年に所収)
(注2)
(細かいことですが、正確を期すために)
インド貨幣の専門書によると、西暦1028年にガズナ朝最盛期のスルタン、マフムード(在位998-1030)の下、ラホール(パンジャブ)で発行されたディルハム銀貨には、牡牛と騎士の像は描かれていない。アラビア文字の初期技巧書体であるクフィック体(注3)で、マフムードへの讃辞が刻まれているのみ。
牡牛と騎士の図が描かれているのは、マフムードの後裔である王達が、同じくラホールで発行した、ビロン貨と呼ばれる低品位合金貨である、とのこと。
コインの正確な説明という点では、こちらの記述の方が圧倒的に信頼できる。しかしそのことは、(注1)で引用された文章が持つ重要な意味を、いささかも減ずるものではない、と考えます。
(注3)
「クフィック体」というのは、「クーフィ体」とも呼ばれ、元々は「クーファ」という町の名に由来する。現在のイラクの古い町であり、アッバース朝(750〜1258)初代カリフが自己の正当性を最初に宣言した場所。宗教文化都市として歴史的な役割を果たしてきた。ユーフラテス川沿岸に位置し、イラク報道によく出てくる「ナジャフ」に隣接する。
→銀の旅路を追いかけていると、こんなところにまで、たどり着いたりします。世界は、不思議な糸で結ばれているのです。
久しぶりの更新というのに、今回のお話は、ちょっと固すぎる内容でしたね。でも、銀器の歴史にとって、基本的に大切な部分なので、敢えて触れてみました。
さて、今年後半の講座の予定が、決まり始めました。講座タイトルの示すとおり、銀器と食卓が中心テーマです。昨年までとは違うアプローチで、お話をしてみたいと思っています。興味ある方は、是非、講座に足をお運び下さい。
銀器講座のご案内です。
さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。
2004/7/18
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