2008/7/25
『井上ひさしの作文教室』という本を読みました。一般向けに文章の書き方をお話しなさった時の講演記録です。井上ひさしさんの言葉に触れると、いつも教えられます。言葉を探求する姿勢の凄さに圧倒されます。優しい語り口で深く怖い世界を覗かせて下さる力に驚かされます。
井上さんの「優しい語り口」は、氷山の一角に似ています。アハハこりゃおかしいな、面白いなと思って読み始めると、やがてだんだんと怖い世界が見えてくる。哀しい世界が見えてくる。いつしか海面下に隠されている、人間世界の底知れない深さが見えてくる。
この本だって「作文教室」であるはずなのに、似たような流れになっています。最初面白いなあと気軽に読み始めました。だんだん中身が重くなってくる。そして139頁目に至ったっときガツンとやられました。小舟が氷山にぶつかった。そこには、こう書いてありました。
「ものを書くということは、自分が使おうとしている言葉の出生をいちいち訪ねる、ということです。大変難しいことを言っているようですが、実に簡単なことなんです。自分が書き付ける言葉に、いちいち責任を持って、時間がかかりますけど、きちんと字引で調べる。…(中略)…というふうに、言葉の成り立ちをおさえて、物を書いていくということが大事です。言葉の出生を訪ね、理解したことを書いていく。」
きちんとした理解もないままに、言葉を気軽に書き散らすな、そうおっしゃっているわけです。ちょうどエッセイの原稿を書いている時に、〆切直前にこの本を読みました。〆切直前にこうした本を読むというのは、不安だからなんですね。書いている文章に自信が持てない。よく言えば向上心、少しでも文章を良くしたいという。というよりも、指針となるような何かに救いを求めたい、というのが正直なところです。
それなのに、上のような文章に出くわす。こりゃ大変、今さら書いた言葉をすべて辞書で調べ直すなんて、できない。救いどころか逆に、不安のどん底にたたき落とされてしまって暗澹たる気分です。それでも何とかと思って、気になる言葉をちょっと字引に当たってみました。
最初に調べたのが「嫁ぐ」(とつぐ)という言葉です。気軽に書いたのですが、ちょっと気になったものですから。なにげなく使ってますよね、この言葉。
たとえば、しばらく前に古い友人とお酒を飲んだときのことです。友人のお父さんの納骨後で、ちょっとしんみりした席でしたけれど。友人は自分の娘について、こう言いました。
「誰でもいいから、それなりの男見つけて早く嫁いでくれればって思うんだよね。誰でもいいんだよね、そこそこの相手さえ見つかればさ。居るみたいなんだけどね…」
日本国語大辞典(精選版)
とつぐ「嫁」
一[自ガ五(四)]
1.男女が情を通じる。交合する。交接する。
2.結婚して他家の者となる。結婚する。縁づく。嫁にいく。かたづく。
井上ひさしさんの言葉にはいつも、教えられます。正直に告白しますけれど、今回辞書を引くまで、この言葉に「1」の定義があること、知りませんでした。私の友人も、たぶん、知らなかったろうと思います。知ってたら言えません「誰でもいいから…」なんて。
「2」の定義が先に書いてあって、その下に「1」の定義が続くというのなら、「なるほど、当然だよな」と思うことでしょう。でも、「嫁ぐ」という言葉の定義冒頭に「1」が来るというのは、予想もしていない。生々し過ぎる。とはいうものの、よく考えてみると、言葉の成り立ちとしては、この順番だったろうと納得できます。多くの人が、そのことを忘れてしまっているわけですね、きっと。
年賀状の片隅に1行書くお父さん、いそうだと思いませんか。「今年こそ娘が適当な相手を見つけて嫁いでくれることを願ってます。」なんて。「嫁ぐ」の定義「1」を知ったら、そんなこと絶対、年賀状に書けませんね。
となると、こうしたケースでは「結婚」という言葉をつかうべきか…なんてことを考えているうちに、肝心の原稿を提出する時が来てしまいました。仕方がないので、「嫁ぐ」一語を調べただけで、原稿を送ってしまいました。やるせない心境です。
それにしても文章を書くというのは、なんて怖いことなんだろうか。井上ひさしさんの言葉に触れて、改めてそう思いました。あんなところまで突き詰めていたら、とても文章なんて書けない。これじゃ「作文教室」じゃなくて、「作文あきらめなさい教室」じゃないか。そんな風に思いつつ読み進めていくと、144頁に、こう書いてありました。
「どうですか、みなさん、だんだん文章書くのがいやになってきたでしょう? それが狙いなんです。むしろ、いい読者になってほしいと。そして、われわれ作家を支えてほしい。(笑い)」
ジョーダンじゃないよな。お釈迦様は、こちらの心理をお見通しです。そして、次の頁の最後に、こう書いてあります。
「結局は、書いている自分が元気になるような書き方で書けたらいいな、というのがわたしの希望です。」
そりゃ先生はこれで元気になられるかもしれないけれど、読んだ私は一瞬にして、意気消沈。でも、気を取り直して、思いました。臥薪嘗胆だと。これからもきっと、救いを求めて、井上ひさしさんの本を開くことになるのだろうと思います。
先生の作品、大学生の頃から読んでます。それだけに最近ちょっと気になることがあります。先生は近年、真正面から政治を語られることが多くなってきたと感じます。主張を作品化している暇がない、ということなのかもしれません。本書にも途中、そういう部分が出てきます。私の目はそこに至ると突然、文字を追うことが出来なくなります。人間誰しも、好きな部分と受け入れたくない部分があるもの。これは致し方ありません。それでも「魅力に惹かれる」わけです。まあ、面倒な話はやめときましょう。
いずれにしても「師=先生」は表面優しく中身が怖いほど、後で教えが効いてくる。そう思いませんか。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2008/7/25

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2008年の講座は、これまでになく充実したものとなるはず。当の本人が、大いに乗って準備していますから。どうぞお楽しみに。
いろいろな場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。話の内容は様々ですが、基本テーマは一つです。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。
詳しくは→こちらへ。
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