●アンティオキアで発掘された銀の酒杯が
パリ経由でニューヨークにたどり着くまで
この銀製酒杯は、1910年にアラブ人がアンティオキアの遺跡を掘っていて、「偶然見つけた」という話になっている。このとき一緒に、次のような品々が発掘されている。十字架(銀製)1、本の装飾カバー(銀製)3、それに別の酒杯(銀製)1。 すべて、教会で使われたと推定されるものばかりだ。
(この文脈で「アラブ人」という表現も奇妙だと思うが、複数の資料に、そう書いてあるので、ここはそれに従う。)
そして、このアンティオキアという場所で発掘されたということが、まず第一に「聖杯伝説」に結びつく大きな要因の一つだった、と考えられる。これがアンティオキアで発掘されたものでなければ、「聖杯」とまでは、話が進まなかったのではないだろうか。この偉大な古代都市について、こちらの解説を参照して頂くと、その意味が、お分かり頂けると思う。
発掘後、これらの品々はまとめて、シリアのアレッポ商人の一団によって買い取られた、とされる。後の経緯も含めて考えると、掘り出したアラブ人が、学術目的で発掘作業を行っていたものとは、ちょっと考えられない。遺跡荒らしだった、と見る方が自然だろう。
そして、アレッポ商人の一団から、この品物はすぐに、フランスはパリの骨董商と思われる人物の手に売り渡される。このあたりは、きわめてスムースに事が運んでいるようなので、ひょっとすると、発掘の真のオーガナイザーは、実は、このパリの骨董商ではないのか、という疑いが浮上してくる。もっともこれは、「危ない橋を渡る勇気のない骨董商」である私の直感に過ぎないが。
だいいち、アレッポ商人による「共同購入=シンジケート」というのが、怪しいではないか。実際にはありもしないシンジケートをでっち上げて、書類上、間に噛ませる。それを通す形で宝物を海外に持ち出す。こうして責任の所在を曖昧にする目的ではなかったか。とは言っても、この当時、そうした責任を追及すべき主体たる国家そのものが、果たしてちゃんと機能していたものかどうか。
この1910年という時点は、オスマン帝国が崩壊していく最終過程のさなかであり、隣接するバルカンを中心に、一帯は大混乱という状況だ。その混乱の中で、こうした財宝の移動が密かにかつ活発に行われていたと見るべきではないだろうか。幾つかの資料を読んだが、いずれも、聖杯がパリに至るまでの経緯については、曖昧にされているという印象が強い。だからこそ、よけい、好奇心をかき立てられる。
パリの骨董商氏は、この宝物を、同じくパリの金銀を扱う有名な業者の元に送る。そこで、慎重かつ丁寧に、積年の汚れを落とす作業と修復作業が行われ、見事に、往年の姿を甦らせることに成功する。やがて時代は、第一次世界大戦へと突入する。
パリ陥落の可能性もささやかれた、「マルヌの戦い」を前にして、この銀杯は、アメリカに「避難」することとなる。アメリカ側でこれを受け入れたのが、ニューヨーク在住のファイム・コチャック氏だ。その素性については未だよく調べていないけれど、大金持ちであることだけは、確かだ。この人はかなりの美術品コレクターで、とりわけ、古代ローマ時代前後の、ガラスや銀器の逸品を蒐集していた人であったらしい。
●老研究家、アンティオキアの酒杯を鑑定する
このコチャック氏、銀の酒杯に、よほどの思い入れがあったに違いなく、手に入れて後かなりの年月を経て、その「鑑定」を、ある学者に依頼する。その学者というのが、グスタブス・アイゼンという、スウェーデン生まれの研究者だ。
このアイゼン先生の経歴が興味深い。1847年生まれで、ウプサラ大学の理科系の学部を卒業し、同大学の動物学科に助手として残る。同じ大学に学んだ、二歳年下のストリンドベリと友人であったという。ストリンドベリは後に、スウェーデンを代表する作家となる人だ。
アイゼン氏は、活発に学会誌に論文発表を行ったり、その過程で進化論のダーウィンと手紙のやり取りがあったりと、学者としては目立つ存在であったようだ。やがて招かれて、カリフォルニア科学アカデミーで、主として生物学を専攻する研究者として、活躍することになる。具体的には、1880年から1903年にかけて、スミソニアン研究所や米国農務省の依頼で、主に南米を中心に、発掘作業を伴う、生物考古学とでも呼ぶべき研究を行った。かなり優秀な学者だと見てよさそうだ。
この先生、狭い専門分野に閉じこもる人ではなかったようで、雑誌の科学欄の編集を担当したり、幅広い分野に興味と関心を抱くタイプの研究者だったようだ。やがて、彼の関心は、生物学から考古学へと、移り始める。そして、科学アカデミーを引退する年齢になったとき、一気に、その方面の研究に邁進し始める。
その手始めが、古代ビーズの研究で、これを通じて彼は、先に述べた、ニューヨークの収集家コチャック氏と知り合うことになる。彼の経歴から想像されるように、その研究手法は、科学的な研究方法を考古学に持ち込んだ、実証的な手法であったと推定される。この人以前に、古代のビーズ玉を正面から研究対象とした人はいなかったらしい。それだけに、一流の収集家であるコチャック氏の目にとまったのは、当然といえば当然だったかもしれない。
私の手元に、アイゼン先生が聖杯について分析した長い論文を自身で要約したもののコピーがある。ここで先生は、聖杯について、理科系出身の学者らしい態度で、杯の装飾様式や技法から、年代判定を試みている。また、装飾の類似例との比較により、作られた場所、目的等について推測をおこなっている。
一読するところ、その分析は、実証的な論法で貫かれている。ただし、その個々の推論については、現代の研究水準からすれば、おそらく、否定されざるを得ない部分も少なくないだろうし、実際、先生の主張はおおむね、後進により乗り越えられているようだ。
それはともかく、先生がこの聖杯の分析作業を終えたのは、八十五歳の時であったという、そのことに私は心を動かされた。ご本人の文章を読めば解ることだが、その年齢を考えると、研究態度の若々しさに驚かされる。ピシッピシッと要点を外すことなく、論理的に推論を重ねていく様は、なかなか見事だ。説得力のある文章に、思わず納得させられてしまいそうになる。対象への情熱が感じられるのだ。そこが魅力だ。
敢えて言う。先生の主張の当否を判断する力など、私にはもちろん、ない。しかし、老研究者が大金持ちからの依頼を受けて、敢えて自説を曲げて、依頼主に好都合な「鑑定」を行った、というような様子は、その文章からは感じられない。むしろ、その逆で、素晴らしい対象に出会った喜びが随所から感じられる分析となっていることは、申し添えておきたい。
結論から言えば、アイゼン先生はこれを「聖杯」だと断定しているわけではない。しかし、その可能性が大いにあってもおかしくはない、というニュアンスの書き方をしている。微妙な表現だ。そして、この先生の「微妙なお墨付」があったればこそ、シカゴ世界博に「聖杯」が華々しく出品されたものと考えられる。
●この逸話が物語る銀器文化の面白さ
先生が下した結論の妥当性について、異教徒である私がとやかくいうことは、この一文の目的とするところではない。私がここで言いたいのは、次のことだ。
1933年シカゴ世界博に出品された「聖杯」は、西欧文化に脈々と今も続く「聖遺物」伝説の、ほんの一コマに過ぎない。銀器と教会との密接不可分な関係。十字軍と騎士達の儀式。更に、そのことから派生的に流れ出てくる、様々な銀器に対するイメージの存在。
ヨーロッパの人々が銀器というものに対して、漠然と抱くイメージの根源には、ここで述べたような背景が、大きな要素の一つとして横たわっている。こうした銀器に対するイメージは、長い時間の中で歴史的に作り上げられてきたものであるだけに、日本人にはなかなか見えにくい部分だ。
しかし、この点についての理解がないと、なぜ一部のヨーロッパ人が、あそこまで銀器にこだわりを持つのか、その心情が理解できないのではないだろうか。銀器は単なる「贅沢な食器」ではない。歴史的に様々なものを象徴する多面的なプリズムのような存在なのであって、今回の話で、そのイメージの一端をご理解頂ければ、と思う。
なお、この「聖杯」は、1950年に至って、かのクロイスター美術館(ニューヨーク)の収蔵となる。おそらく相続を理由とする売却であったと想像される。クロイスター美術館は現在、メトロポリタン美術館の傘下にあり、「聖杯」は今もそこで、静かに眠っているはずだ。
タンジールのみかんに、なかなか戻れない。
困った、困った。
さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。
■講座のご案内
五月以降、ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷について、これまでにない視点から、あれこれお話をする機会が何回か、実現しそうです。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。詳しくは→こちらへ。
2005/04/09
アンティオキア
(平凡社 世界大百科事典 長塚安司氏の解説より、
一部省略及び改行の上で引用)
アンティオキア。現在のトルコ名はアンタキヤ Antakya。地中海に注ぐオロンテス(アシ)河口から約30km上流の,シリアとの国境近くに位置する。現在は特産の綿やオリーブ油産業を営む地方の小都市にすぎないが,かつては政治・交易・宗教の中心として繁栄した。創建は前300年,セレウコス1世による。アンティオコス1世のとき,セレウコス朝シリア王国の首都となり,海外貿易や地中海とユーフラテス川を結ぶ通商の拠点として栄えた。
オリエントとヘレニズムの両文明の接触地であり,マケドニア人,ギリシア人,ユダヤ人などさまざまな人種が住み,前2世紀には人口50万を擁したと言われる。前64年ポンペイウスがシリア王国を滅ぼし,ローマの属州とした。市はその主都となり,シリア総督が置かれ,自由都市として認められた。後37年,115年の地震により破壊されたが,皇帝たちは市の整備に努めた。
使徒バルナバ,パウロらにより最も早くに異邦人へのキリスト教布教の基点となり,その信者はここで初めて〈キリスト教徒(クリスティアノイ)〉と呼ばれた(《使徒行伝》11:26)。
市はキリスト教活動の中心となり,4世紀には教父クリュソストモスを生み,アンティオキアの司教座はローマ,アレクサンドリアに次ぐ第3の地位を得,市も同様ローマ帝国内第3の大都市に発展した。この地の教校を中心に著名な神学者が輩出,彼らは後世アンティオキア学派と呼ばれた。
528年の大地震,540年,611年のペルシア人による略奪で市は荒廃し,もはやかつての繁栄を回復することはなかった。638年以降300年間アラブの支配が続き,969年ビザンティン帝国のものとなるが,1084年にセルジューク・トルコの領有となる。
1098年十字軍により占領され,アンティオキア公国が生まれる。1268年エジプトのバフリー・マムルーク朝のバイバルス1世が市を奪った。1516年オスマン・トルコのセリム1世がその支配下に納めた。1920年からシリアに属し,フランスの保護下に置かれ,39年にトルコ領となる。(→本文に戻る) |