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不定期連載『銀のつぶやき』
第20回「銀の聖杯 その1」








 


2005/04/09 

1933年シカゴで開かれた世界博覧会に、アンティオキアで発掘された、銀のゴブレットが出品された。その説明に、これが「聖杯」である可能性も大いにあり得る、という旨の記載があった。「聖杯」とは、キリストが「最後の晩餐」で手にした酒杯を指す。果たして当時、来場者がそれをどのような思いで見たものか、今の私には、わからない。


この写真は、アンティオキアの聖杯の「写し」。とてもよく出来ているが、ごく一部、本物とは違っている。しかし、私の文章を読んで、参考までに見て頂く写真としては、これで十分かと思う。下により大きな写真有り。

●聖杯伝説の背景

キリスト教文化圏では広く、「聖杯伝説」とでも呼ぶべき話が流布している。十字架にかけられたキリストの脇腹からしたたる聖なる血を受けた杯の伝説から、キリストが「最後の晩餐」で手にした酒杯の伝説へ。この聖なる杯が必ずやどこかに実在しているはずだ、という発想が、その背景にある。本来は宗教色の濃いドラマということになるのだろうけれど、その一方で、中世の騎士物語などとの関連もあって、ロマンティックな要素も一杯だ。

聖杯伝説の歴史は長い。しかし、とりわけ十字軍(11世紀末-13世紀)以降、その広がりが大きくなったと見て間違いなさそうだ。異教徒の手から聖地を「奪還」する。これが十字軍の大義名分だった。そして、その過程で騎士達の心の中にあった「奪還すべき聖遺物リスト」の筆頭には、おそらく、この「聖杯」が置かれていたではないかと思われる。

こうした大義名分の下、十字軍は、膨大な量の工芸品を「奪還=略奪」し、まだ野蛮だった西ヨーロッパに、もたらした。その一番の窓口となったのが、ヴェネツィアであること、言うまでもない。というよりも、ヴェネツィアは、その窓口たる地位を独占したいがために、十字軍を積極的に支援し誘導し利用した、というのが正確なところだろう。

十字軍の遠征をきっかけとして東方からもたらされた工芸品の波に、欧州の工芸文化は大きな刺激を受けた。それだけ、工芸技術の水準に大きな落差があった、ということになる。銀器もまた、その例にもれない。

例えば、このとき東方からもたらされた銀器の装飾が、ほぼそのままの形で、後代はるか英国銀器のデザインに踏襲されている例がある。それを初めて知ったとき、その伝わった順路と伝えた人間達のことを想像し、工芸文化の伝播ということの面白さを思った。

さて、この大騒乱をきっかけとして、「聖遺物」を追い求める動きが西欧各地で一層強くなる。それにむけて、十字軍の遠征地を中心に、あちこちの工房で「新たに聖遺物を製作する」という状況が生まれたらしい。当時の経済水準を基準にすれば、これは実に「新しい産業」と呼べるほどの勢いがあったようだ。

いや、少し言葉が足りなかった。一部で誤解があったようなので、少々補足を。「新たに聖遺物を製作する」というのは、聖遺物を納めて寺に飾るための、様々な美しい容器や立派な櫃(ひつ)などを新たに作る、という意味だ。まさか中身まで…。いくらなんでも、そのようなこと、想像するだけでも恐れ多い話ではないか。

●「聖遺物」とは、どのようなモノなのだろうか。

ご存じない方のために、説明が必要かもしれない。聖遺物とは具体的にどんなものなのか。森安達也東方キリスト教の世界』(注1)から引用させて頂く。

「かくしてコンスタンティノープルは、十一世紀中葉にはじまるコムネノス朝時代に世界最大の聖遺物の宝庫となった。いまヴァルテルの記述にしたがってその聖遺物をいくつかあげることにする。

 イエスに関しては、産着、下着、肩帯、帯、サンダル、弟子の足を洗ったたらいと足をぬぐったタオル、奇跡によってパンをふやした一二のパン籠、サマリアの女にあったときの井戸の縁石、アブガル王にあてた自筆の手紙、最後の晩餐のさいのテーブル、ゴルゴタの丘で脱がされたチュニカ、遺体を包んだかたびら、小びんに保存された血、その他受難のさいのほとんどすべてのもの、すなわち聖十字架、それをつくるときに使った槌、鋸、ねじ、十字架に打ち付けられた釘、いばらの冠、スポンジ、槍の穂先…

(まだ延々と続くので中略←つぶやき)

…これほどの量の聖遺物があると、ものによっては同じものがふたつも三つも重なることもあった。たとえば、最後の晩餐に使われたテーブルはコンスタンティノープルだけでもふたつあったが、どちらが真正のものかは問題にならなかった。神の御業が人間にははかり知れない以上、聖遺物が重複しても不思議はなかったのである。」

これを読んで、ちょっとびっくりなさった方も多いのではないだろうか。お断りしておくが、上の文章は、極めて真面目な学者さんが、真面目な意図で書かれた一文なのであって、もし、万が一にも、そうでないニュアンスが感じられたとしたら、それは、引用の仕方が悪いということになる。

では、なぜ西欧各地で、それほどまでに聖遺物が求められるようになったのだろうか。

それは当時、巡礼の旅が盛んになりつつあったことと関係があるようだ。世の中の変動期には、多くの人々が巡礼の旅に出ること、洋の東西を問わない。幕末のお伊勢参り(おかげ参り)の例もある。近ごろ日本で、札所参りが盛んになりつつあるように見受けられるのも、時代が大きな転換点を迎えていることの表れではないだろうか。

それはそれ、サンチャゴ・デ・コンポステラを筆頭に、霊験あらたかと名の知られた寺院には当時、大勢の巡礼者が救いを求めてやって来た。遠路ものともせず徒歩で祈りの旅人が行き交う巡礼街道の賑わいは大変なものだったらしい。

たとえば、そんな街道から脇道に少し入った場所に、ポツンと立つ小さな古びた教会。わずかな村人をのぞけば、訪れる人もほとんどない。賑わう街道を眺めやる坊さんのつぶやきが聞こえてくる。「サンチャゴとまでは望みませぬ。しかし、せめてウチの寺にも、ぜひ何か…」。天罰を畏れずに言えば、西欧各地の寺院から、寺の秘宝となるような聖遺物を求める強い需要があった、ということになる。

そして、これら「寺院」の中には、貴族諸侯のチャペルも含まれると見てよさそうだ。こちらは、聖遺物を安置することで、一族のチャペルをより崇高で威厳あるもとし、その一層の繁栄につなげたい。「我ら一族、この御しるしあればこそ、この地の領主なり」というおもむきではなかったか。いずれにしても、異教徒の大胆な発言、どうぞお許しあれ。

実際、欧州の美術館や教会の展示説明を注意深く読んでいると、この頃もたらされた「新しい聖遺物」ではないかと思われる品々に出会うことがある。肝心の中身についてはいざ知らず、少なくとも、それを納める容器はいずれも、「いかにも」という雰囲気で、見事な品が多い。異教徒である私の目から見ても、「それらしい雰囲気」が感じられるのだ。要するに、人々が心の中で描く「聖遺物」というイメージにふさわしい雰囲気がある。

当然のことながら、これらの品々は工芸品として水準の高いものが多い。欧州の工芸文化とりわけ金属工芸について考えるとき、それがどこでつくられたものであれ、司教座のあるような教会に奉納された銀器が、おおむね時代の最高水準を代表する、と見てまず間違いないところではないだろうか。そしてこのことは、奉納する人々や工芸を作り出す人々の精神性すなわち信仰心が工芸にどのような影響をもたらすものなのか、という難しい問題につながってくる。

ところで、激しい戦闘が繰り広げられた十字軍の背後で、ちゃっかり目端をきかせて動き回る人々がいた。それはソロバン片手の冒険商人たちだ。聖遺物に関連する品々を探し求めて、日々忙しく営業活動にいそしむ彼らがいなければ、こうした工芸品は欧州に集積されることはなかっただろう。

その筆頭に挙げられるのがヴェネツィアのイタリア商人たちであること冒頭に触れた通りであって、そこに、中継ぎとしてユダヤ商人はもちろん、更にはアラブ商人まで加わる場合もあったというから、驚いてしまう。もっとも、表向きは「敵味方」実は「ヴェールの下でしっかり握手」という構図は、現代の中東をめぐる紛争でも、いろいろな場面でかいま見えるジグソーパズルかもしれない。なにやら話がロマンティックではなくなってきた。

大きな問題であるだけに、十字軍については、歴史家の見方は、いろいろある(注2、注3)。突っ込みすぎると話が長くなるので、ここからはもうすこし夢のある、聖杯伝説と中世騎士たちをめぐる別の一面に目を転じてみよう。

●中世の騎士と銀の酒杯

西欧の中世騎士たちの世界で、封建の主従関係を確認する意味で、一つの酒杯からワインを分かち合って飲む、という行為が古くからあった。そこでは、飲み口に銀をかぶせた角杯(牛などの角=ツノをくりぬき表面の角質を美しくみがき上げ銀の獣足を付して杯とした)なども多く使われたが、徐々に、銀の酒杯が用いられようになっていく。

その起源は、はるかキリスト教以前の戦うゲルマン諸族の風習にさかのぼる。古い時代には、ワインではなくエールやビールを分かち合ったに違いない。

命を賭けた戦いが日常の騎士達にとって、互いの気脈を通じることが重要であること、日本の鎌倉・戦国の武士団と変わるところはなかっただろう。そして、この、ワインを分かち合うという行為が、十字軍以降、徐々に儀式化されていく。

その過程で、騎士達にとって銀の酒杯は、重要な象徴性を帯びた存在となっていく。この騎士達の、いわば「絆(きずな)固めの儀式」は、キリスト教の聖餐と関係が深く、これがさらには、聖杯伝説を広める素地の一つにもなっていく。西欧社会で銀器のイメージを形作る、一つの根源と見ていい。

こうした背景の中で、聖杯伝説は徐々に一定のイメージが形作られていく。ここで、注目したいのは、「聖杯」=「金もしくは銀の酒杯」というイメージになっていくという、その点だ。

ガラスや陶器ではなく、青銅でもない。聖杯はそのイメージとして、「金もしくは銀」でなければならないのだ。「最後の晩餐」について記述する新訳聖書「マタイによる福音書26.26-40」その他の箇所には、単に「杯」と書かれているだけだ。特に「銀の酒杯」という記載があるわけではない。実際、初期の段階では、まずもってガラスというイメージが強くあったようで、次いで木製、更には、角杯もまた、その可能性の内に入れられていたようだ。

それがどのようにして、「銀の酒杯」というイメージに統一されていくのか。この背景には、カノン法大全の規定や、それに関連する教会典礼の変遷など、興味深い歴史的な経緯がある。長くなるので、ここではこれ以上、触れることはできないが、とにかく、西欧のクリスチャンにとっては、聖杯すなわち金銀の酒杯というイメージが、長い時間を掛けて徐々に出来上がっていった、と考えて頂きたい。

さらに「聖杯」と言った場合、その形状についてもまた、一定のイメージが出来ている。このイメージが完成するまでには、これまた長いお話がある。古い時代には、両手付であったり、皿のように浅い容器であったり、様々な形での「聖杯」像が存在していた。やがてそれが、今風に表現すれば、大きめのワイングラスに近い形へと、人々のイメージが統一されていく。

このように、「聖杯」の存在が伝説である以上、あくまでも、人々の心の中に、その具体像はある。とするならば、多くの人々が、その心の中にいったい、どのような聖杯像を抱いているのか、その像=イメージこそが重要だということになってくる。そして、もしここに、多くの人々がイメージするものにふさわしい「実物」が出てきたら、果たして、どうなるだろうか。

注意深く見て頂くとわかると思うが、これら人物像の装飾は、内部にあるシンプルな銀の杯の表面を覆う形で、後から施されたものだ。

高さ:約20cm 

直径:約16cm

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例によって、長くなってきたので、

この項、次回へと続きます。

さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。

講座のご案内

五月以降、ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷について、これまでにない視点から、あれこれお話をする機会が何回か、実現しそうです。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。詳しくは→こちらへ。

2005/04/09

 

(注1)

森安達也氏は元東京大学教養学部教授で、専門は東方教会史及びスラブ文献学。その人物紹介に、理解する外国語として、英語、フランス語、ロシア語、ポーランド語、ブルガリア語、ギリシャ語、ラテン語という七つの言語が挙げられている。1941年生まれでありながら、1994年に52歳で逝去されている。この方の本を読むと、これからいいお仕事を沢山なさったことだろうにと、惜しまれてならない。(→本文に戻る

(注2)

十字軍については、山ほど専門書が書かれているし、この半世紀で、学者の解釈の仕方も大きく変化している。西洋史における一大トピックであるだけに、争点は多岐にわたる。

ただ、最近の傾向として、イスラム側およびビザンツ側、すなわち「十字軍によって攻められた側」から歴史を見直す、という方向性が強くなっている。これは現代世界の政治動向を反映した動きだと感じる。

歴史というのは常に、現在から見て過去を語ることだから、「現在が過去に反映される」という奇妙なところがある。日々刻々と移り変わる現在という鏡に映し出される過去の像は、現在の変化に応じて、常に変化し続けていく。

変わるはずのない「過去」が、実は、日々刻々と変化している。だからこそ「お父さんの高校時代には、世界史の授業で、そんな風には習わなかったぞ」ということになる。人間の世界は、過ぎ去った過去も含めて、いつだって風に揺られている。気がつけば散っている夢まぼろしの桜のごとくに。(→本文に戻る

(注3)

「日本を代表する十字軍史研究家」と申し上げていい橋口倫介先生は、次のような辛辣な一文を書いていらっしゃる。先生は上智大学の教授、学長を歴任され、2002年10月に82歳で逝去されている。

上智という我が国有数のカトリック系大学の学長というご経歴のある方が、「キリストの兵士」十字軍の騎士たちに対して、かくも厳しい立場でいらっしゃるとは、いささか驚いてしまう。それほど、十字軍側には、「正義」がなかった、ということなのだろう。少なくとも、この文章を読む限りは、そう判断せざるを得ない。

三十年前の文章でもあり、表現が硬く、決して読みやすい文章ではないが、内容は濃く、深い。以下、橋口倫介「十字軍--その非神話化--」岩波新書912 (1974年)より、一部改行を入れさせて頂いた上で、引用する。

…西ヨーロッパの諸侯・騎士はキリスト教徒同士の私闘をやめた代わりに、中近東に渡って「盗賊領主」になった。

もともと盗賊であった者は法王の保証付きで「キリストの兵士」に変身した。その他、無数のいかがわしい人間が誰も彼も、贖罪の美名に隠れて司直の追及を逃れ、海外で大なり小なり戦利品の獲得に狂奔した。

「自分の分け前をふやすためには、暴行、偽証、殺人すらも、ありとあらゆる手段が正当化され」、十字軍は「良心の呵責に悩む多くの魂に精神的アリバイを与えた」[R.グルッセ]のである。

出稼ぎと出世主義
   巡礼たちを東方への旅に誘い、信心業というアリバイを与えて掠奪行為を正当化したものに、聖遺物蒐集という風習がある。

その起源は、あらゆる宗教に共通した聖者遺骨に対する崇敬に発するといわれるが、キリスト教では前述のコンスタンティヌス時代いらい流行しはじめ、キリストにゆかりの遺品や「受難」にまつわる道具類(キリストの顔を拭った布、磔刑につかった十字架の木片、十字架上のキリストの脇腹をついたローマ兵士の槍など)をはじめとし、聖母マリア、使徒や諸聖人を記念する無数の聖遺物に対する熱烈な愛好の嵐がひろまった。

  古くから伝わるもの、新たに発見されたもの、由緒来歴のはっきりしたものや相当いかがわしいものなど、聖遺物は上は王公、高位聖職者から下は一介の巡礼にいたるまで、西ヨーロッパの人々の異常な蒐集熱をあおりたてるようになり、十字軍時代以降その最高潮に達する。

これにともなって、地方的な無名の聖人や土俗的伝説上の聖者にゆかりの聖遺物が洪水のようにあふれだし、果ては現存の有徳の士や民衆に親しまれている辻説法師のような人物の着衣や所持品までが聖遺物あつかいされるありさまとなった。

人々はまず、近隣の聖遺物を拝観し、その一小部分を分け与えてもらうことから病みつきとなり、収集の目的で遠く旅をするようになり、ついには聖遺物の源泉であり宝庫である東方への巡礼を志すことになる。

  コンスタンティノープルで、アンチオキアで、そしてエルサレムで手に入れた品々は、たとえそれがおのぼりさん相手のつまらない土産品であっても、当人にとっては血と汗の賜物であり、遍路の誓いを果たした証の記念品である。

ましてそれがめったに得難い真物の聖遺物やそれに類する貴重品である場合は、獲得者の名誉となり財産となる。このたのしみを予測に入れることなく十字軍に参加した巡礼者は、おそらく一人もいなかったであろう。これは一種の出稼ぎである。
  
   聖遺物が巡礼のスーヴニール以上の財産になることは稀であったとしても、聖地巡礼の目的には常に精神的な報いのかたわらに物質的な報酬がつけ加えられていて、故国にあってはうだつのあがらない人々を好餌で呼び集めていた。

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