2009/6/20
学生時代に初めてアムステルダムに行ったとき、中央駅から歩いてすぐの道端に、フライドポテトを売る屋台が出ていた。揚げ芋の香ばしい香り。売り子は40歳くらいのオバサンで元気がよく、大きな声でお客を呼び込んでいた。
「東京駅のデザインモデル」と言われる中央駅が見える場所だから人通りも多い。お客が次々とやってきては、ポテトを買っていく。そういえば、この町の美術館には『イモ食う人々』という世界的に有名な絵がある。ゴッホいや、フィンセン・ファン・ホッフだ。
オバサンは白い袋にフライドポテトを詰め、トマトケチャップかマヨネーズかと聞いて、そのパックを付けてくれる。で、「マヨネーズ、プリーズ」と言って買ってみた。表面がカラッと揚がったイモには塩が振ってあり、マヨネーズとよく合って、大満足。
十一月で、石畳の道を一日歩いていたら、靴の底から足が冷たくなっていた。生まれて初めての体験だった。有名な運河はあちこちで凍っていた。遊覧船が氷を割りながら進んでいったことを覚えている。そんな夕方だったから余計、熱々のポテトがおいしかった。
さて、このポテト売りが凄かった。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、少なくともこの四ヶ国語でオバサンは、お客に応対していた。マルチリンガル。私はその様子が面白くて、やり取りを眺めていた。ヨーロッパじゃポテト売りのオバサンでさえ、四ヶ国語が話せる!
その後似たような光景をあちこちで見た。街角のキオスクのオジサン、ホテルの掃除のお兄さん、美術館の土産物売り場のお姉さん……。どこに行ってもマルチリンガルが当たり前。当時はほんとうに、そう思い込んでいた。でも、これには裏があった。
オバサンは「トマトケチャップ、それとも、マヨネーズ?」「はい、○○ギルダー(ユーロ)ね。」「ありがとう!」とまあ、せいぜい、この3つほどの、商売上必要な「決まり文句」についてのみ、4ヶ国語で言えるだけだったハズだ。いわば、超限定版マルチリンガル。
人は、生活が掛かれば、何語だって最低限しゃべれるようになる。一種の生存本能だ。大都会ならどこだって、そういう生存本能の力で生きている人たちが沢山いる。東京だって例外じゃない。回る寿司の皿洗い、コンビニの兄ちゃん、天津甘栗の実演販売、そして、夜の街で稼ぐ外国人女性たちまで。
母国で満足な教育を受けられなかった人たちだって、最低限の日本語をしゃべっている。そして、それで、お金を稼いで暮らしている。だから「日本人は外国語が苦手」という話題になると、いつも同じことを、思う。日本人は幸せなんだと。
この国では、外国語を話せなくても、生きていける。生活に必要がないから、話せない。ただ、それだけのことだ。「日本語の特殊性が原因」なんて、そんな大それた話じゃない。
ところで、ポテト売りのオバサン、英語はベラベラだった。ポテト以外の話も英語であれこれしゃべっていたのだから。アムステルダムでは英語が驚くほどよく通じる。あの頃からそうだった。
オランダ人には英語がよくできる人が珍しくない。今それが原因で、深刻な事態が起きていると、オランダのラジオ番組が伝えている。
(●次回へと続く)
2009/6/20

■講座のご案内
2009年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。また、この4月号から新たに雑誌の連載エッセイがスタートしました。
大修館書店発行の月刊『英語教育』で連載タイトルが「絵画の食卓を読み解く」。絵に描かれた食卓を食文化史の視点から読み解きます。ぜひ、ご一読を。
というわけで、エッセイもカルチャーでのお話も、
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
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