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大原千晴

名画の食卓を読み解く

大修館書店

絵画に秘められた食の歴史

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シオング
「コラージ」4月号

卓上のきら星たち

連載34回

フーデックス2014 探訪記

 

不定期連載『銀のつぶやき』
第139回 チャーチルの食卓  -3-

 
 

2014/05/06 

  前回 の続きです。

 

 

 欧州戦線の状況熾烈な1942年8月、チャーチル(1874-1965)はモスクワに飛ぶ。ドイツの制空圏を避けながら、ロンドンからジブラルタル、次いでカイロを経てテヘラン経由。直行すれば数時間で済む経路を、大変な遠回りで、途中の寄港を含めて、ほぼ24時間に及ぶプロペラ機での飛行の末に、8月12日の夕刻、モスクワに到着している。

 同機には、アメリカからルーズベルト大統領の密使として派遣されたW・アヴェレル・ハリマン(William Averell Harriman, 1891-1986)が同乗していた。後にケネディ政権下で極東担当国務次官補に任命されることになる人物で、私は子供の頃「ハリマン国務次官補」という名前を、意味が分らず音の連なりとして、ラジオやTVのニュースで年中耳にしていた覚えがある。この人が同乗していたおかげで、この「24時間の飛行」が生易しいものではなかったことが判っている。

 というのも、機内でチャーチルとハリマンの二人が交わした「会話」の内容がノートになって残されているからだ。決して、秘書が機内で書き留めたものではない。二人の直筆だ。では、なぜ、両者の直筆のノートが残されているのか。スターリンとの交渉という最重要会談を前にして英米首脳が機内で交わした「会話」は、「筆談」で交わされていたのだ。周囲に会話が漏れることを恐れての筆談ではない。大声で叫ばなければお互いの話が聞き取れない程、機内の騒音が凄まじかったからだと言われている。

 一行を運んだ英国空軍のB24 Liberater中型爆撃機

 

 二人をモスクワに運んだのは快適な旅客機などではなく、プロペラの中型爆撃機だった。この振動と騒音凄まじい爆撃機で乗り降りを重ねながらの24時間の旅。老政治家にとって体への負担は半端なものではなかったはずだ。にもかかわらず、モスクワ空港到着後チャーチルは、ビシッとした格好で滑走路での歓迎式典に臨み、短いながらも力強いスピーチで、ソヴィエト国民に、こう訴えている。

 「共に手を携えてヒトラーを叩きのめそうそうではありませんか!」

 朝から水割り片手に葉巻を口にするでっぷりと太った老獪な大政治家は、一方で、陸軍士官学校出身の「真の軍人魂」という灯火を絶やすことなく心の奥底に秘めた男だった。軍人魂。チャーチルという人間を読み解く最も重要な鍵ではないだろうか。イザという事態を迎えた時、これに火がついて、闘争心がメラメラと燃え上がる。そうなったときブルドッグは、獅子=ライオンとなる。

 私はドア・ツー・ドアで24時間掛かる旅を二度経験している。その一度目は、成田→ロサンゼルス→デンヴァー→オクラホマシティという経路。自宅を発って24時間後にオクラホマシティに到着した時には、もうヨレヨレだった。チャーチルが搭乗した爆撃機に比べれば、比較にならないほど快適なジェット機の空の旅であるにもかかわらず、である。後に、この時のチャーチルの一連の行動の見事さを知ったとき、心の底から、自分のだらしなさを恥ずかしいと感じ、これが精神と体のネジの巻き直しを始めるきっかけとなった。再び1942年8月12日夕刻のモスクワ空港に戻ろう。

 空港での歓迎式典後、一行はモスクワ郊外のスターリンの別荘へと向かう。驚くべきことに、チャーチル自身の強い希望で、その夜からすぐに会談開始。会談は夕食抜きで、午後7時から11時までの長丁場となった。この初日の会談終了時、「共産主義嫌い」で知られたチャーチルに対してスターリンは、心のこもった握手を交わして見送っている。獅子の心意気に感じるところがあったためと推察される。

 この晩、午前零時を越えてようやく取ることのできた遅い夕食の席。チャーチルは、ワイングラスに葉巻を掛けおいたまま、眠り始める。獅子67歳の夏である。

 これほどまでに、英米ソの3者が会談を急いだのには、わけがある。この頃ソヴィエト西部はウクライナを中心に、ドイツ軍の猛攻にさらされている。ヒトラーは条約を無視して6月、ロシアに精鋭部隊を攻め入らせ、8月8日にはその前衛が、キエフとレニングラードまであと数キロ、という位置にまで侵攻していた。「モスクワ陥落もあり得る!」という声が上がるほどの非常事態だ。

 西部ロシア一帯は大混乱に陥り、食料不足による飢餓状態が広がりつつあった。この混乱と緊張が頂点に達しつつある8月12日からの2日間、チャーチル・スターリン会談は行われた。しかし、英国側が当初目論んでいた合意には達することが出来ず、チャーチルは落胆していた。こうした状況の中で14日、英国側とソヴィエト側合わせて約百人の関係者を慰労する意味で、スターリン主催の公式晩餐会が開かれる。メニューは以下の通り。

[前菜A]:キャビア2種、燻製を含めて、鮭、チョウザメ、ニシン2種。ハムの冷製、野鳥のロースト・マヨネーズ和え、鴨のロースト、トマトサラダ、キュウリ、チーズ。
[前菜B]:白マッシュルームのサワークリーム和え、野鳥のパテ、ナスのムニエル。
[スープ]:ボルシチのコンソメ仕立て 
[主菜]:チョウザメのシャンパン煮、鶏肉のクリーム煮、ロースト三種(七面鳥、鶏、ウズラ)、マッシュト・ポテト、仔羊のロースト・ポテト添え、キュウリとカリフラワーのサラダ、アスパラガス。
[デザート]:果実入り果汁のアイスクリーム。
[食後酒]:コーヒー・リキュール、果物のプチフール・アーモンドのロースト添え。

 公式宴席を深く知ることは、政治や経済の分析とはまったく別の視点から、宴席主催者の本質を知ることに通じる。では、このメニューは何を物語るのか。ひと言で言えば、「ロシアは懐が深い。非常時なれども、いまだ戦う余力あり」ということを内外に強く印象付けるメニューだということに尽きる。

 極めて珍しいことにチャーチルは、この公式宴席に、通常のブラック・タイではなく、ツナギ服状の「防空服」(サイレンスーツ)着用で臨んでいる。緊迫した戦況とスターリンの「国民服」に合わせた配慮と思われる。1940年9月7日ドイツ軍の大空襲によりロンドン中心部に大きな被害が出た。翌朝チャーチルは、瓦礫と化した地区を歩いて視察している。その時でさえ服装は、右手にステッキ、左手に葉巻、蝶ネクタイ着用でスーツにコートという、パーフェクトな英国紳士ぶりである。非常時だろうがなんだろうが、自身のスタイルを崩さず、自己の美学を貫く。これがまた英国民には、受けた。それを思うと、チャーチルの防空服姿は、モスクワでの異様な緊張感の反映と見ていい。

 いずれにしても、この8月14日の公式晩餐会をもって、モスクワ訪問日程は終了する、はずだった。ところが、ここで歴史の駒は不思議な動きを見せ始める。

 明けて1942年8月15日、事務レベルの最終協議が終了した後の、夜七時頃。翌朝早い時間にモスクワを離れる予定となっていたチャーチルは、最後の別れの挨拶をするために、スターリンの許を訪れる。このとき予想外にもスターリンは、クレムリンの一隅にある自宅に、チャーチルを招き入れる。英側はチャーチルと通訳官一人のみ。迎えるソ連側は、スターリンとモロトフ外相それに通訳官の三人。そこにスターリンの娘スヴェトラーナが挨拶に出るという、くつろいだ雰囲気で、公式日程にはない、突然の招きだった。なお、この点に関しては、チャーチルの側から強い希望で実現した、との説もある。

 左:長男ヴァシリー、中央:長女スヴェトラーナ 

 

 ここでスターリン自らサーブする形で、ワインやウォツカやあれこれの瓶が、卓上に林立し始める。酒豪チャーチルでさえ驚くほどの酒瓶の数だった。さらには、自ら瓶の口を切り、コルクを開栓し、グラスに酒を注いでいく。あの恐ろしき独裁者スターリンが、である。

 酒に続いて出された料理も凄かった。つまみ代わりのラディッシュに始まり、仔豚、鶏、牛、マトン、それに、魚料理あれこれ。「優に三十人分はあった」と後にチャーチルが回想している。こうして四時間ほどが経過した11時頃、スターリンは突如席を立ち、この日の特別料理として準備された豚の頭を卓上に置き、自らナイフを使ってほほ肉をカーヴし始める。やがてナイフを使うのが面倒になったのか、指先で肉をちぎり始めるに至ったという。豚の頭と格闘するスターリン、グラス片手にこれを見つめるチャーチル。まさに「事実は小説よりも奇なり」というほかはない。

 チャーチルは心の底から喜んでいた。首脳同士の「サシの会談」、これこそチャーチルが政治家として終生、大切にした政治手法だ。テーブルを挟んで、共に飲み、共に食べながら、相手の腹の中を見据え、落とし所を探っていく。それこそが政治の醍醐味。チャーチルは、こうした場でこそ、真の力を発揮する政治家だった。

 スターリンとの酒宴を終えてチャーチルが宿舎に戻ったとき、時刻は翌16日の午前3時15分を回っていた。延々8時間近くに及ぶ首脳同士の酒宴。さすがのチャーチルにして翌朝は二日酔いだったという。「量は凄かったが料理の味はいまいちだった」と側近に語ったと記録されている。

 ここでぜひ思い出して頂きたいのは、これがチャーチル67歳の夏であったことだ。現在の日本であれば、80歳前後の老人に相当すると考えていい。それにして、このタフネスぶりは、驚異的だ。

 この酒宴によって、公式会談でのスレ違いが解消されたかどうかは、はっきりしない。しかし、少なくとも二人の首脳は、互いを一人の人間として、しっかりと理解する基礎が築かれたことだけは、間違いない。チャーチル自身の言葉で、「心のこもった誠意と友情を感じつつ別れを告げた」「互いに互いの立場を理解できる会話を交わした」さらには「このモスクワ訪問によって私は決定的に勇気づけられた」とまで記している。 こうしてモスクワ時間1942年8月15日の夜を徹して行われた巨魁二人の酒宴から3年後、我が国は、あの「8月15日」を迎える。

 世界秩序の流動化により今世界は再び、首脳外交の時代に突入し始めている。日本の伝統と文化を背負いつつ、年齢を越えて、心も体も胃腸も肝臓も並外れてタフ。そして何より戦略に長け、恐れを知らず、深い交渉力を備えた、チャーチルのような真の政治家が、この日本のどこかに……隠れていると信じたい。

 

    きょうのお話は、ここまで。

  面白いお話、出てこい。
    もっと早く、もっとたくさん。

2014/05/06

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
  主婦の友社     定価 \2,100-

  イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝

  

  

ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。

本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。

私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内

 2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。

「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。

 歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。

詳しくは→こちらへ。