2014/04/20
前回 の続きです。

さまざまな酒瓶にグラス、その脇に積み上げられた葉巻の箱。特に説明がなければ、なんてことない静物画、にしか見えない。しかし、これが元英国首相ウィンストン・チャーチル(1874-1965)の描いたものと聞けば、少しは見え方が違ってくるのではないか。
右から四本目にジョニ黒のハーフ瓶が見えることから、1940年代に描かれた作と思われる。この呑兵衛の画家は、その水割りをチビチビやりながら、描いていたに違いない。それを知れば、一升瓶サイズのマグナムに至るまで、瓶の多くが飲みかけであることも納得がいく。
「趣味の絵」は、40歳という年齢に至って、はじめて本格的に取り組み始めている。別荘のあった南仏などの風景を印象派風に描いた作品が多い中に、なかなかの力作もあり、その実力は、決してあなどれない。

名門の貴公子そのもの「だった」頃
チャーチルは、陸軍士官学校卒業直後の1895年(明治28年)、表向きはある新聞社の特派記者という肩書きで、対スペイン独立ゲリラ戦の続くキューバへと赴いている。これが、文章を書くことでお金を稼ぐ最初の仕事らしい仕事、ということになる。
その裏で、このキューバ行きにあたっては、具体的な調査項目を指示された上で、軍の上官から諜報活動の密命を受けて出発している。こうした形での英国諜報の「伝統」は、現代に至るも、変わることなく続いている。後にチャーチルのトレードマークとなる葉巻は、このとき本場で覚えたものだ。
葉巻、執筆活動(ジャーナリスト)、諜報機関との密接な関係。以後チャーチルの人生を彩ることになる中心的な要素は、後の政治活動を除けばすべて、このキューバでの体験に始まることになる。
ウィルヘルム2世の後ろに控えるチャーチル 1909年
葉巻については、生涯を通してキューバ産の長い太巻きが好みで、一日10本近い本数を吸っていた。一本の半分以上を吸うことはしなかったらしいが、それでも、一日に葉巻10本というのは、いささか度外れている。
第二次大戦中は首相として飛行機での移動が頻繁で、好んで副操縦士席に座った。あまりの煙に操縦士が困るほどで、専用機では、その席の上方に、葉巻の煙排出口が設けられるに至っている。
非常時に権力の中枢にあったチャーチルのもとには、国内外の様々な筋から、良質の酒と葉巻の「贈り物」が届けられていた。当の本人は、贈り主の気持ち(贈賄的な意味)など、一切考慮することなく、喜んでこれを飲みかつ吸っている。
しかし、ドイツ側スパイによる首相暗殺の企てを恐れる警備当局は、贈られた葉巻に毒が仕込まれていないかどうか、贈り主の調査を徹底していた。こうして首相の手許に積み上がった葉巻の在庫は、約三千本! 物資欠乏の非常時、上質のハヴァナをこれだけ在庫できた店は、ロンドンの専門店でも限られていたのではないか。

時代をさかのぼって、1931年12月のニューヨーク。夜の五番街を横断中にチャーチル(当時57歳)は、車にはねられ、肋骨2本にヒビが入り、したたか頭蓋骨を打ち、顔に裂傷を負うほどの重症で、入院する。あわや九死に一生を得た、という状況だった。
この時の行動が、凄い。入院後病床で、事故の詳細な経過を秘書に口述筆記させることで、ひとつのストーリーに仕上げているのだ。衝突の衝撃を「戦時の爆弾被弾の際の衝撃」に例えるなど、スリル満点のサスペンス仕立てで、話の面白さは、プロの作家そのもの。ジェフリー・アーチャーも真っ青という出来栄えだ。
年が明けて1932年1月、これが英国の新聞デーリー・メールに「独占手記」として二回にわたって掲載される。その原稿料がドル換算で二千五百ドル。驚くべき高額だ。

メディアと大衆に対するアッピール力はカリスマ的
加えて、この時もうひとつ「入院の成果」があった。当時アメリカは禁酒法時代で、表向き、お酒はご法度。でも、医師の処方があれば堂々とアルコールを入手できた。それを利用して「この患者は、特に食事の際に、最低でも250ccのアルコール飲料を要す」という、とんでもない処方箋を医師に出させている。
250ccといえば、ウィスキーのボトル「3分の1」を越える。昼食と夕食併せれば、3分の2。この分量が「最低でも必要」となれば、これは想像だが「量が足りないと体に良くない」とか何とか言って、一日にボトル1本を空けていたに違いない。朝から水割り飲んでいた人なのだから。
退院後、カリブ海バハマでの三週間の療養を経てNYに戻ったチャーチルは、ブルックリンの大学で講演。その会場に、事故で自分をはねた当の相手を招き、自著に署名をして贈っている。このあたりが、人の心をつかむに見事なところで、政治家としての貴重な資質がかいま見える。
実は、この時のアメリカ行きは、大恐慌による株価暴落で蒙った損失補填のための、講演旅行だったのだ。前回ご紹介したようにチャーチルは、お金で苦労している。だからこそ、頭を絞って大向こうを唸らせる文章を書きに書いて、何とかこれでお金を稼ごうと、工夫と苦労を重ねている。読書家にして天性の語り部という才に恵まれた人であることは間違いない。これに加えて「文章で金を稼ぐ」という強い思いがあったからこそ、あの、読む人をグイグイと引き込む力のある文章が誕生したのだと思う。講演もまた同じことで、このときは全米を広く「公演」して回っている。
このように、自動車事故と大怪我と入院を「お話のタネ」にして、カネを稼ぐ。その気力と根性、転んでもタダでは起きない機転、それに加えて、ユーモアと心配り。人間としての魅力は尽きない。

左はチャプリン。場所はハリウッド。名作『街の灯』の撮影現場らしい。この時、「いつか映画の原作となる作品を書いてお送りしたい。若きナポレオン役を演じて頂きたい」とチャプリンに申し出たという。ご本人としては大真面目の提案だったようだ。後に完成した『街の灯』を見て、チャーチルはハンカチを握りしめながら、泣きに泣いたに違いない。
その魅力の、別の一面を物語る逸話がある。このクラス(階級)の慣習としてチャーチルは、生まれてから学校に入学する6〜7歳の頃まで、乳母エリザベス(1833-95)の手で育てられている。言葉も数も基礎はすべてエリザベスから習っている。

乳母 エリザベス 実母 ジェニー
その密着度は、実の母ジェニー(1854-1921)よりも強く、長じて後もずっと、乳母の暮らしに心配りを怠らず、思いをかけ続けている。やがてエリザベス臨終の折、用務多忙の中を夜中の列車でロンドンからエリザスの許に駆けつけ、長時間ベッド脇で過ごした後、朝早い列車で再びロンドンに戻っている。数日後、エリザベス逝去の報に接した彼は、葬儀の準備万端に心配りをし、埋葬後に自分と弟の名を刻んで墓石を建立している。そのすべてを、ウィンストンひとりで処理している。その必死な奔走ぶりを読んでいると、彼の心の叫びが伝わってくるようで、泣けてくる。このときチャーチルは、母の一人を喪ったのだ。
さて、ここからが、本題だ。
次回 へと続きます。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2014/04/20

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
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