2014/04/18

「コラージ」2013年5月号でご紹介した会田雄次氏は、終戦により英軍の捕虜となり、ラングーン(ビルマ)のアーロン捕虜収容所で辛酸を嘗めている。その憎き敵側の総大将というべきが、終戦直前までの五年間、英国首相を務めた、ウィンストン・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer Churchill, 1874-1965)だ。今回から3回に渡って、敵ながら極めて魅力的なこの人物を、食べることと飲むことの側面を中心にご紹介してみたい。「コラージ」に掲載(2013年6〜8月号)されたものに加筆・加像した。
歴代の英国首相の中でも別格の偉人であり、歴史家にして、絵心があり、膨大な著作活動によってノーベル文学賞を受賞。その最後は、女王陛下の命により、二十世紀英国で最も立派な国葬で送られている。まさに華々しさに彩られた一生といっていい。

しかし、人間は、わからないもの。若い頃から生涯を通じてチャーチルは、彼自身が「黒い犬」と呼ぶ、うつ病に悩まされ続けている。趣味の域を越えていると言われた「絵を描くこと」も元々は、うつ病治療の一環として始めたことだったという。また、子供の頃から吃音(どもり)気味で、政治家として長い間これで苦労している。
もうひとつ意外なこと、それは、収入についてだ。英国貴族の中でも名門中の名門といっていい家系の長男として生まれながらも、その社会的地位と生活の水準に見合う収入には恵まれず、一生の稼ぎの大きな部分を「執筆」によって得ていたというから驚く。著作活動に関しては、まさに叩き上げの作家といっていいわけで、ノーベル「文学賞」は必ずしも、世界史を動かした偉大な政治家への「お飾りのご褒美」というわけではなさそうだ。実際、チャーチルの文章は、読ませる。
そんな怪物も、73歳頃から何度か脳梗塞にみまわれ、二度目の首相在任中78歳での発作で、会話が不自由となり、以後は車椅子が必要となっていく。

チャーチルといえば、酒を好み、口から葉巻を離したことがないことで知られる。驚くほど繊細な舌の持ち主で、大変なグルメだ。しかも、重要な政治会談をするに当たっては「相手と共に食卓を囲む」ということを極めて重視していたという人物だけに、飲食にまつわる興味深い逸話が多い。
戦時の首相を務めていた時期(1940-45)、官邸から約60キロの郊外に位置する、英国首相専用の迎賓館チェッカーズで行われたディナー・パーティーの様子からご紹介してみよう。 時は、1940年5月。チャーチル率いる戦時連立内閣が誕生したばかりという時点。大陸では、そのひと月前の4月に、ドイツ軍がデンマークとノルウェーを席巻し、5月に入ると、ベルギーがドイツに降伏し、同じくオランダが占領されるという状況下で開かれた宴席だ。
この晩のパーティーの参加者は、軍の参謀、閣僚、友好国の外交官といった人々で、原則として夫人同伴。まず、午後8時半頃から30分ほど、チャーチル夫人や令嬢たちがサーブする形で、軽く食前酒を楽しむ。午後9時からディナー開始。午後10時を回った頃、女性陣は揃って別室(この晩はライブラリ)に移り、ティーやコーヒーでおしゃべりを楽しむ。
食堂に残った男性陣は、チャーチル(当時65歳)を中心に、主題である政治の話を始める。ちなみに、この場ではスティルトン・チーズをつまみに、それぞれがポート酒を手酌で自由に、というのが英国の上のクラスの習慣。11時少し前頃に、男性陣は揃って女性達の集う部屋に移って合流し、この夜はここで映画が上映されている。この男女合流の場では、男性陣もティーかコーヒーというのがしきたりだ。
チャーチルは大変な映画好きで、しかも、ちょっとした場面ですぐに涙もろくなり、ハンカチが手放せなかったという。あの偉そうなブルドック顔の下には、思いもかけず繊細な神経が秘められていたのだ。だから、うつ病になったのかもしれない。
やがて映画が終わり、深夜零時半頃から、女性陣とともに別室でナイトキャップを楽しむ。この束の間の歓談が済み、女性陣は午前一時少し前に退出。男性陣はメインルームに移動。「じゃ、仕事を始めようか」というチャーチルのひと言と共に、本格的な議論が開始され、これが午前3〜4時頃まで続く。
まさに政治は夜、動いていたのだ。それにしても、アペリティフから終了まで、8時間! タフでなければ、務まらない。こうした「打ち解けた自由な雰囲気」の中で、互いの腹の中を探り、そこで得られた感触を判断の糧として、戦略を立てるための貴重な指針とする。非常時であればなお一層、宴席はその重要度を増す。
実際、この時期チャーチルは、この形式の宴席を頻繁に行なっている。政治と外交の世界で「パーティー」=「宴席」が果たす役割の重要性を、この呑兵衛の大政治家は、骨の髄まで知り尽くしていたのだ。要するに彼は、より人間を深く知る場として宴席を活用するに、極めて優れた資質の持ち主だったといっていい。
政治家の宴席やゴルフは、現代の日本で時に批判の対象となる。その決まり文句が「意思疎通をはかる目的ならば、お茶を飲みながら会議室で話をすればいい」だ。一見もっともらしい「正論」のような響きがある。だが、こういうことを言う人は「人はいかなる場面で本音を語るものか」という人情の機微がわかっていない。人の心の奥底を測れないようでは、とうてい大政治家、いや、小政治家にさえ、なれないはずだ。

さて、トレードマークの葉巻と並んで、手からグラスを離さなかったといわれる「お酒」について。まず日常の飲み物としては、ウィスキー(ジョニ黒)の水もしくはソーダ割り。最低でも5〜6倍程度に薄めて、午前中から、水代わりに飲んでいた。ご本人はおそらく、これを「酒」だとは考えていなかったのではないだろうか。戦後の一時期盛んだった日本人の「ジョニ黒信仰」は、チャーチルに預かるところが大きい。

これを別にして「酒」として好んだのは、なんといっても、シャンパンだ。三十代半ば以来、銘柄はポル・ロジェール。1944年パリの英国大使館で開かれたパリ解放記念のパーティー。チャーチル(当時69歳)はこの席で、このシャンパンの醸造元オーナー夫人で、優美な美女として名高いオデット(当時33歳)を紹介される。戦時下ではレジスタンス活動を経済的に援助するだけでなく、自身も自転車で連絡役を務め、ゲシュタポに捕まって身柄を拘束されたこともあるという、激しさと強さを秘めた女性だ。
チャーチルとオデットは出会ってすっかり意気投合。以後チャーチルがパリを訪れる際には、必ずオデットがゲストして招かれるという親密な交際へと発展していく(この二人の間を取り持った、ある外交官の話が、非常に面白い)。チャーチル夫人は二人の関係を公認し、以後オデットは、在庫の尽きるまで、彼が好んだ1928年のヴィンテージをチャーチルに送り続けたという。国葬に際しては、「故人の親友」という特別待遇で、数少ない私的なゲストの一人として参列している。

1940年9月 ドイツによる空襲翌朝のロンドンを視察
そんなチャーチルも、時には女性を相手に、酔うことがあった。美貌で知られる英国初の女性下院議員アスター夫人と同席した時の話。若くして離婚の後、アメリカから英国に飛び、縁あって貴族夫人となり、後に下院議員になった、なかなかの人物だ。酔ったチャーチルの話にうんざりした夫人「ウィンストン、あなたが私の夫だったら、コーヒーに毒を盛ってやることになるわ」。酔いながらも皮肉いっぱいの鋭い反撃する頭だけは冴え渡っているチャーチル。応えて曰く「ああ、そうですか。私があなたの夫だったら、喜んでそれを飲み干します」(お前みたいな女の夫でいるくらいなら死んだほうがマシ、という意味)。
次回 へと続きます。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2014/04/18

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2011年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
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