2006/8/15
今回は帰国時にロンドン・ヒースロー空港の混乱を体験したので、その様子をお伝えします。空港が混乱するとこうなる、という参考程度に、どうぞ御一読を。
私が搭乗したのは、事件勃発から4日後の8月13日日曜日。
機内への持ち込み手荷物は、透明なビニール袋一つだけ。持ち込みを許されると発表されていたのはパスポート、航空券、財布、医師処方の証明ができる薬(そんなものを用意できるのは一部の人に限られるはず)、それにティシュー、それくらい。液体は赤ちゃんのミルクを唯一の例外として、一切御法度。せめてこれくらいはと思って入れたボールペンも途中で没収。念のためにと入れた頭痛薬も市販薬はダメで、これも没収。
一番の悩みはノートPC。これをスーツケースに入れざるを得なくなったのには困った。バブルラップでぐるぐる巻きにして、枕のような形状にする。これをスーツケースに入れる。本来そのスペースに入っていた服は、下着やパジャマを中心にかなりのものを捨てることになった。
ただし、PCについてはこれだけ保護してみても、不安が残った。というのも、飛行中貨物室の温度は零下数十度になるとかいう話で、へたをするとPCが一部凍って再度地上温度で凍った部分が溶けて水滴となり、これが部品に損傷を与える可能性がある、というのだ。そんな話を英国のニュース番組で聞いたので気が重かった。もちろん、スーツケースが投げ飛ばされるのは百も承知の上での話だ。しかし、他に選択肢は、ない。
結論から言えば、このバブルラップぐるぐる巻枕方式で、私のノートPCは無事だった。今後は念のために、対衝撃保護のポータブル・ハードディスクを持って行くべきだと思っている。
日曜日なので道路は空いていたが、ヒースロー空港の手前1キロ付近に達した途端、大渋滞。途中で警察官が「怪しい」と踏んだ車を停車させて、厳しい検査をしている様子が見えた。この大渋滞のおかげで、ターミナルまで最後の1キロを進むのに30分以上掛かった。早めに出発したので、この点は問題なかったが、そうでなければ、冷や汗ものだったと思う。その意味では、空港へのアクセスは、地下鉄かヒースローエクスプレスを利用するのが賢明ではないかと思われた。
ところで、空港まで運んでくれた車の運転手はホテル出入りで顔見知りのエジプト人。もちろんイスラムだ。この大渋滞の中を強引な割り込みを繰り返して、ちゃんと時間に間に合うように送ってくれた。道中彼は「こんなことになるのも、ブッシュとブレアが悪いんだ」と言い続け。驚くほどの勉強家で、国際情勢の細部にまで通じた上での発言だ。英国で今イスラム系の人々がかなり辛い目に遭っていることを思うと、彼の言葉の裏にある「やりきれなさ」が、いやでも私に伝わってきた。
ようやくターミナルに到着して車を降りると、焦る搭乗客であたりはごった返している。皆の表情が引きつっていて、ピリピリした感じがある。とにもかくにも、そのごった返す人波をくぐりながら、スーツケースを引っぱってチェックインの列に。
列の長さはいつもより多少長い、という程度。ふつうなら話を交わすこともないのに、列の誰もが目で「ひどい目に遭ってるよねえ」という表情で互いにアイコンタクト。自然に会話が始まる。私の後ろは、日本の年配のご夫婦で、事件勃発当日にグラスゴウ空港からロンドンに来る予定だったのがキャンセルされ、やっとの思いでその日ヒースローにたどり着いたという。
私の前はインド系の若い女性で、本来手荷物で持ち込むつもりだった、これまた大きなバッグが二つ、巨大なスーツケースの上に乗っている。「これ全部チェックインするの?」と聞いたら、「仕方ないでしょ。」とウンザリした表情。
チェックインを了えて出たところで出会った黒人は、これからボストン(アメリカ)に行くのだが、心配でイヤになると言っていた。こうした緊急事態を目前にすると人間は、未知の人間同士でも、お互いに話を交わしたくなるようだ。人間が本来心の奥底に隠している不安が優しさを引き出してくるのかも知れない。「宇宙船地球号」という、ちょっと空々しい気恥ずかしくなるような言葉が、それなりに実感をもって感じられた一瞬だった。
チェックイン自体はスムースに完了して、手には透明なビニール袋一つがあるのみ。回りを見渡せば、誰も彼もがビニール袋一つを手にしてウロウロという状況。これを持ってトイレに行ったら、男の場合、ずらり便器が並んだ壁面の上のスペースに、全員がこのビニール袋を置いて用を足している。まるで収容所か何かのようで、なんとも悲しい。そして、おかしい。
ここからが問題の手荷物検査とボディチェック。そしてパスポートと搭乗券の検査。こちらは長い列ができていたが、列は意外なほどのスピードで進行していく。手荷物検査に至る途中数カ所に「ゴミ袋」が準備されていて、そこに立つ係員が事前に袋を目でチェックし、規定の品以外はそこに捨てることを強要される。私の場合にはボールペンと頭痛薬それに飲料水のボトルをここで捨てることになった。
やがて手荷物のスキャンへ。今回英国で初めて、靴を脱いで検査を受けた。ベルトも外せと言われた。靴とビニール袋とコートとベルトをプラスチックの箱に入れ、スキャナーのベルトコンベアに載せる。人間はスキャナーのゲートを通り、両手を開いてボディチェックを受ける。ほぼアメリカ並みの厳しさだった。
やがてパスポート検査へ。ここでは明らかに、見かけでチェックの有無が別れている。検査官が怪しいと見た人間のみ、何か質問されている。我々のような見かけの人間は、検査官が手招きして、早く通過しろと合図されるばかりで、私の手にしたパスポートなど見むきもされない。
こうして、山ほどの免税土産物店が並ぶ待合室にたどり着けば、ここはいつもと変わらない。ただ、ケータイ電話やPCの持ち込みができないので、この待合いの中にある店で買った新聞雑誌や本を読むほかは、どうしようもない。多くの人々がビニール袋片手に免税店の見物に歩く様子は、なんだかユーモラスに見えた。
ゲートでしばし待って、ようやく機内の座席に座ったら、珍しく隣は二十代半ばという感じの若い女の子。ああ、中年小太りのオヤジでなくて良かったと私は救われた思いだったが、彼女から見れば私はまさに「中年小太りのオヤジ」そのものなわけで、「どうして私は飛行機でいつもツキがないんだろう」と彼女はガッカリしたに違いない。
一見真面目そうな彼女は語学校で4週間の語学研修を了えて日本に戻るところ。その彼女から、「中年小太りのオヤジ」は、ちょっとビックリするような話を聞かされた。
彼女の通っていた語学校にはいろいろな国から学生がやってきていて、誰もが今回の事件で帰りの飛行機の心配をしていたという。中にロシアからの学生が何人かいて、その一人の帰国便が事件で飛行キャンセル。夏のハイシーズンに他便への変更もできず途方に暮れた。そこで親元に電話。ここまでは珍しくない話。
で、その親はどう答えたか。「わかった。急きょビジネスジェットをチャーターしてロンドンにさし向けるから、それに乗って帰ってきなさい。」そう答えたという。実際このロシア人学生は、他のロシアからの学生全員をそのチャータージェットに乗せて、全員一緒に意気揚々と帰国したのだという。
今のロシアには、こういう家が出現しているということで、そのスケールの大きさに圧倒される。彼女曰く「日本は、なんかみみっちいですよねえ。こんなこと考えられないし。そんな凄い男の人って、いないですよねえ、ホリエモンとかだってぇ…」とまるで私がその日本のみみっちい男を代表しているかのような目で私を見ながら、そう言うのだった。誠におっしゃる通りです。すいません。
話のスケールがみみっちくなって彼女には恐縮だけれど、今回初めて私はある銀器商で、ロシアから英国に銀器の買い付けに来たというロシア人ディーラーに出会った。壁の崩壊後、どうやって入手したのか美術館収蔵品ではないかと思われるような品々をロンドンでさばくロシア人が多く出てきたことは周知のことだが、あちらから銀器を買いに来るロシア人ディーラーというのは、これまで聞いたことも見たこともなかった。
チャータージェットの話といい、銀器買い付けディーラーの話といい、今のロシアは経済的に一部でお金が唸っていることを示しているわけで、中国人と並んで世界の骨董市場でロシア人の動きが目立ち始めるのも時間の問題だと思われる。
なお、飛行機のキャンセルと大混乱は、特にヒースローから英国各地に飛ぶ国内便と一部近隣国際線に集中しているようだ。この数日間にキャンセルで飛べなかった人々が山ほど出ていて、国内乗り継ぎ便は大変な列ができていた。また、空港外にテントが用意されていて、そちらで待つ人々も見かけた。いずれにしても、あと数日は、この混乱が続きそうだと思った。
それにしても、空の旅が安全だった時代は当分戻ってこない、という気がする。昔から旅は危険なものと決まっていた。これまでの数十年間がむしろ、異常だったのではないだろうか。
一人一人の人間達は、空港でのこの程度の不安にも、国なんて関係なしに、互いを頼りにしたくなる。目と目で心を交わし、言葉で思いを伝え合う。しかし、それだけでは、世界に平和は訪れない。
無事日本に戻って一夜明けたら、8月15日だった。
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