2004/08/07
(文末に追記訂正 2010/09/12)
不思議な縁で、一つの町と出会う、ということがある。私にとって、ボローニャ(イタリア)は、そんな町の一つだ。
初めてこの町の名を知ったのは、スパゲッティの名前だった。スパゲッティ・ミートソースのことをボロネーゼといって、イタリアのボローニャという町で作られたのが始まりなんだと、これは母から、中学生のときに聞かされた話だ。
そうか、俺の大好きなスパゲッティ・ミートソースは、ボロネーゼというんだ。そのボローニャという所にはきっと、おいしいものが沢山あるんだ。青山一丁目の中学校に、デコボコ三人組で、毎日徒歩通学。三人の中で一番チビの中学生は、そう思った。少年老い易く学成り難し。そんな言葉は、つゆほども知らない、小少年がそこにいた。
次に、この町の名に出会ったのは、高校の世界史の教科書だ。ヨーロッパで一番古い大学が、ボローニャ大学だと書かれていた。ミートソースの町が、欧州の大学発祥の地だなんて、どうもピンとこない感じで。参考図書に中世そのままの、大学の建物の写真が載っていた気がするが、それはそれで終わった。
San Stefano
そして、三度目の出会いが、大学三年の春の初めのことだった。科目選択の時に、「後期集中講義」と書かれている授業に目がとまった。夏休み前は講義なし!九月から一月までの集中講義。こりゃいい。楽ができる。それに、科目が「ローマ法」。何だか面白そうだ。お気楽に、そう考えた私は、その集中講義がどんなに大変なものとなるのか、その時点では、まるでわかっていなかった。
担当は、佐藤篤士先生。なぜ後期集中なのか。先生が、ボローニャ大学に在外研究にいらしていて、帰国直後の夏休み明けから、講義開始というスケジュールだったのだ。やがて迎えた九月の開講初日。教室に入ってみて驚いた。学生が僅か五人しか来ていない。「これじゃ、講義をサボルわけにいかない」そう思うと、なんとも憂鬱になった。私は、どうしようもない学生だったのだ。授業は、朝八時半頃からの九十分、これで週に二度の講義だったと思う。専門科目としては異例の時間割だった。
佐藤先生は確か当時、助教授で、おそらく四十歳前後でいらしたと思う。ローマ法専攻の若手助教授が、欧州一の古さを誇り、ローマ法学の総本山と呼ぶべきボローニャ大学に学んで、帰国したばかりなのだ。山ほど伝えたいことがあったに違いない。初日から先生は、その大きな黒い目をらんらんと輝かせて、ほとばしり出る情熱を、真正面から学生にぶつけてきた。

Basilica
di San Francesco
中世以来の伝統の中で、ボローニャ大学に集積されてきた古文書の山。そんな貴重な資料を筆頭に、多様な文献を読み漁る。イタリアはもちろん欧州各地からやってきた様々な研究者達との交流もある。留学中の色とりどりな出来事を先生は、半ば興奮気味に語り続けられた。そして、その過程で新たに見い出された新鮮な問題意識を、一気呵成に、学生にぶつけてくるのだ。それも、学問的に未整理なままで。それは「火の出るような講義」だった。
そんな講義を、追いかける学生の側は、大変だった。教科書に書いてあるようなことは、諸君は当然わかっているはずだ。そういう前提で先生は、一切の妥協なしに、ひたすらしゃべり続けて論を展開なさっていく。授業を受けている学生の中で、ローマ法の基礎のある奴なんて、一人もいなかったはずだ。話の中身についていくだけでも、必死だった。
受ける私は、速記マシーンと化して、とにかく、先生がしゃべりまくることを、ひたすら書き留めた。今ものそのノートは、取ってある。私の大切な宝物だ。講義が始まってからは、授業をサボリたいなどとは、もはや思わなくなっていた。それどころか、むしろ欠席せざるを得なくなる事態を心配し始めていた。私は一生、あのときの講義を忘れることはないだろう。授業の内容ではない、人間が人間にぶつける、情熱のことだ。
途中で二人脱落して、三人が残った。しかし、結局最後まで先生は、まったく同じ調子で、口から炎を吹き出し続けて、実質四ヶ月間の授業が終了した。凄い講義だった。他の学生の一人とは、授業の前後に時々、話をした。確か彼は、野村證券いや総研に行きたいと言っていた。今どこでどうしているだろうか。私は「優」を頂いたが、多分、三人の学生全員に「優」を下さったに違いない。
佐藤先生は、火を吹く講義の合間に、ボローニャの町が如何に素晴らしいかを力説された。大学や町の建物の立派さと共に、特に「市政」について語っていらしたと思う。当時「赤い自由都市」としてイタリアはおろか、日本の政治好きの間でも有名な町であったことと、大いに関係ありだったと思う。まだ、そういう時代だった。
|