2005/12/09
今から五〜六年前のことになる。ロンドンから東京に戻る飛行機で、ちょっとくたびれた、中年サラリーマン風の男と隣り合わせになったことがある。どうして、カワイイ女子学生じゃないんだ。
小太りで、よれたスーツ。そろそろ床屋に行った方がいい感じの、髪の無精さ。顔の皮膚は白けていて、一目で、お疲れですね、と同情したくなる雰囲気。ニッポン企業戦士、くたびれつつも戦闘中なり、だと思った。
最初は特に言葉を交わすこともなかったが、食事時間をきっかけとして、私の方から話しかけてみた。「ロンドン駐在でいらっしゃいますか?」彼は一瞬、けげんな表情を浮かべてから、英語で答えてきた。「I'm Korean.」
韓国人なんだ。それにしても、我が同朋とそっくりだなあ。四十歳前後だろうか。夜、新橋駅裏の居酒屋から、この人が出てきても、彼が韓国のサラリーマンだなんて誰も思わないだろう。それくらい、日本の疲れた中年おじさんの雰囲気だった。韓国の男は一般に、我が同朋よりも、くやしいながら、見かけが宜しいのが多い。しかし、この方の場合は、そうではなかった。
この人はロンドン駐在で、東京に立ち寄ってからソウルに戻る途上の、サムスンの社員だった。コンピューターの部品をあれこれ扱っていて、日本の大企業にも大きな取引先がいくつもあると、ちょっと自慢げに言っていた。これが2005年の今なら、むしろ日本の電脳企業の課長が「サムスンさんとも、お取引を頂いております」と自慢げに語るのではないだろうか。
サムソン社のことは、それ以前から知っていた。当時は、日本でよりもむしろアメリカや欧州各地で、その名前を目にすることが多かった。経済紙誌の広告頁はもちろん、主要空港の荷物カートで、その名を目にしたとき、「ああ、韓国も伸びてきたなあ」という感じで眺めていたものだ。
2005年12月の今「サムスン」と聞いて、「ああ、韓国も伸びてきたなあ」などという悠長な感想を抱く日本のビジネスマンは、皆無だろう。まして、ロンドン駐在で半導体を扱うサムソンの社員と聞けば、「こりゃ、なかなか大変な男だな」と内心思うに決まっている。
ここ五〜六年の間にサムスンは、それだけ大きな変化を遂げた。それはそれとして、私が乗り合わせた当時はまだ、「ああ、韓国も伸びてきたなあ」という「時代」だった。
食後もワインを飲みながら、あれこれ話し始めて、すぐに感じたことがある。ロンドン駐在というのに、どうも英語がお上手ではない。私の質問内容を聞き返してくることが何度もあったし、また、彼が話すときは、考え考え、単語羅列風な表現が多かったのだ。
正直言って、この英語力でよく、ロンドン駐在で仕事ができるものだ、と感じた。英語の下手なロンドン駐在社員。韓国を代表する企業サムスンの、恐らく課長さんクラスでこれでは、「韓国も、まだまだだなあ」と、その時は、そう思ってしまった。
多くの日本企業も、サムスンをその程度の存在として、甘く見ていたんじゃないだろうか、その頃までは。そういう態度を戒める古典を、みんな中学高校で習ったはずなのに。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし…」
古文の授業なら、先生はきっと、こんな感じでお話になるところか。言葉の響きの美しさに酔っていてはダメですよ。ここで「盛者」すなわち「おごれる者」とは誰を指しているのか。ちゃんと押さえておいて下さい。来年出そうな所ですよ。注意点は、平成十五年頃を境に、大きな転換があったということ。時代の転換点を、受験生が理解しているかどうか、その点が試される問題ですね。その前と後とでは、同じ言葉が、別のものを指していますから。
よく考えてみれば、ロンドン駐在ニッポン中年男企業戦士にして「英会話」が苦手というタイプは、いくらでもいる。そのことと彼らのビジネス力は、必ずしも関係しない。「英会話」が下手だって、MBAじゃなくたって、優れたビジネス力を持つ男は、いくらでも、いるのだ。このサムスンの課長氏もまた、そういう一人であったに違いない。
やがて隣の席の彼氏、ワインの力も手伝ってか、だんだん会話が打ち解けてきた。そして、そのつたない英語では自分自身をちゃんと表現できないことが、もどかしくて仕方がない、そういう感じになってきていた。それが私にも、よく伝わってきた。
そんな感じになってきた時、おもむろに「ところで、歴史に興味はあるか」と聞いてきた。まさか、日韓併合以来の「恨の歴史問題」を持ち出すつもりかと一瞬警戒したが、ほろ酔いの企業戦士が、そんなこと言いそうにないと思ったので、正直にこう答えた「歴史探求は趣味です。」
彼はにっこり笑って、じゃあ、この国を知っているかと、○○という、私が聞いたこともない「国名」を口にした。○○。いくら考えても、思い浮かばない。サムスン氏は、仕方ないなあ、あんた歴史が趣味だなんてウソでしょ。ほんとうは何も知らないんじゃないの、だいたい日本人は過去の歴史をちゃんと認識できないんだから、とでも言いたそうな表情で、メモ用紙を取り出した。そしてそこにボールペンで大きく、立派な文字で、「渤海」という二文字を書きしるした。
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