2011/4/3
前回(114回)からの続きです。
前回アウクスブルクの話をホームページに上げたのは、大震災の前日です。あれから三週間。被災地の皆様の窮状を思いつつ、ここに気持ちを取り直して、話の続きを進めさせて頂きます。

大きな木の真下にベンチは置かれていた。そこに座ると、まるで大樹に抱かれているような感じで、気持ちが落ち着きます。ドイツにとって第二次世界大戦は、深い心の傷として今もあり続けている。地下壕の展示にはその痛みが表現されている。その傷は、日本人の心に刻まれた傷と同じような、また、どこか違っているような。銀器の歴史を訪ねる旅で、フッガー家の一端に触れてみたいという気持ちから、この町にやってきたはずなのに。地下壕の展示を見たおかげで頭のなかは、第二次世界大戦の終末の両国の様子を想像することで、一杯になってしまいました。
でも、いつまでも、そうしているわけにはいきません。フッガーライを後にして、町の中心部にある美術館へと向かいます。地図を見ると、もともとフッガー家の大邸宅があった場所に隣接して、その美術館はあるはず。途中ピザ屋の前を通る。トルコ系の経営で、ドネルケバブも回ってます。ピザ屋にしてケバブ屋。面白い。ひょっとしてケバブ・ピザとか。東京ならプルコギ・ピザだ。このさして大きくない町の中心部を少し歩いて回っただけでも、トルコ系の飲食店を何軒見かけたことか。ミュンヘンのような大都会でなくても、至る所でトルコ系の人々の存在を感じます。

それにしても、歩きながら目に入ってくるのは、中途半端な建物ばかり。古い建物が、ほとんど残っていません。なぜ、それほどまで滅茶苦茶に、アウクスブルクは破壊されたのか。当然理由があります。市の郊外にディーゼルで有名なマン社の、戦闘機メッサーシュミットのエンジン工場があり、この町は軍需産業の拠点の一つだったのです。
1942年という段階ですでに、この工場地帯は空襲を受けています。そして、1944年(昭和19年)2月25日、米軍の600機近い大編隊による空襲で、町の中心部は、完膚なきまでに破壊しつくされてしまいます。アウグスブルクの人々にとってこの日は、東京人にとっての「昭和20年3月10日」なのです。フッガーライ地下壕の展示でも、廃墟となった町の写真の下に、この日付がはっきりと記されていました。

やがて町の中心に近い広場にたどり着きます。その昔フッガー家が本拠地としていたという大きな建物(再建)。その入り口に「フッガー銀行」という真鍮のプレートを見つけました。「プライヴェート・バンク」と小さく書かれています。一族の子孫は健在で、ひっそりと金融業を営んでいらっしゃるらしい。ここにお金預けて、「フッガー銀行」の紋章の入った小切手帳を手にしてみたい。ためしに2〜3億円くらい預けてみようか。一瞬そう思いましけれど、止めました。リヒテンシュタインとケーマン諸島の口座で十分ですから。郵便貯金? 御冗談でしょ。プライヴェート・ジェットで世界を旅している男ですよ。
そここら十数メートル歩いたところに美術館はありました。フッガー家とは別の、19世紀に入って大きく成功した銀行家の邸宅。代々の当主のコレクションが展示の中心です。この建物は間違いなく、古い。空襲の被害を免れたらしい。内部はなかなか重厚な雰囲気です。

人気のないホールの受付に、係の初老の女性が一人。入場券を買いながら英語で質問してみます。「町の中心部には古い建物がほとんど残っていないようですけれど、この建物は古いですね。アウクスブルクは第二次世界大戦でやられたんですね。」
「メチャメチャに、やられたんですよ。」あまり気乗りのしない感じで、返事が返ってきました。
「アメリカ軍ですか? 東京から来ました。日本人です。やられたのは日本も同じですけれど...」。「日本人です」このひとことが、ききました。彼女の表情がパッと変わりましたから。そして、英語で言うのがもどかしいという雰囲気で、一気に怒りの言葉が流れ出てきました。
「アメリカ軍の空襲、そしてフランス軍です。ひどいものです。アメリカ軍は戦後すぐ町に入ってきました。アウグスブルクの復興に協力するとか言いながら。でも、徹底的に破壊しておいて再興だなんて...。日本でも同じでしょうけれど、そんなのほんと口先だけのことでした。占領しに来たんですよ、占領しに。それと、フランスは絶対許せません。」

美術館の受付の女性は五十代半ばでしょうか。あの戦争を実体験として知っている世代ではありません。なのに、まるで自分が体験したことのように語ります。「フランスは絶対許せない」彼女は二度、そう言い切りました。理由は分かりません。驚きました。「EUで独仏蜜月」なんて、よく考えてみれば嘘っぽい話だ、と思いました。
それにしても、なぜそれほどまでに「フランス絶対許せない」なのか。彼女の怒りの表情を前にして、さすがに、「なぜですか」とは突っ込めません。で、想像してみました。終戦間際に、米軍や英軍と一緒に「フランス軍」が「占領軍」としてこの町に入って来る。直前までフランスは北部は直接、南部は「ヴィシー政権」という形で、実質的にドイツの支配下にあったわけです。それが突如「占領軍」として威張って入ってくる。
「虎の威を借る狐」という言葉があります。虎は恐れられるけれど、狐は嫌われる。むしろ軽蔑される。ひょっとして、そんなことわざが当てはまるような事態が、敗戦前後のアウグスブルク、そしてミュンヘンで起きていたのではないか。「連合軍」という勝者の側からは、決して語られることのない様々な出来事。「連合軍」の一員としての「フランス軍」の行動をめぐって、ドイツ人の側から見て不愉快な出来事がいろいろあったのではないか。

というのも、ひとつ思い当たることがあるのです。今回の旅ではミュンヘンを基地にしています。三週間少々滞在していましたから、けっこういろいろなことが見えてきます。「食文化ヒストリアン」と自称しているくらいですから、どこに行っても、食関連は特に注意深く観察します。それで気付きました。
ミュンヘンには驚くほど、フレンチ・レストランが数少ない。あったとしても目立たない。高級食材店に置かれているチーズもワインも加工食肉も、高級品は圧倒的にイタリア産が中心です。ミュンヘンほどの大都会で、町の中心部に高級フランス料理店が目立たない。これはちょっとした驚きでした。
きっと中世以来、アルプス越えの交易路を通じてイタリアとの関係が深いからだろう、そう考えていました。しかし、どうやら、そう単純な話でもなさそうなのです。独仏国境アルザス・ロレーヌ周辺のドイツ語圏では現在も、思いのほか「反フランス感情」がある。あのあたりの事情に詳しい人からそう聞きました。平たく言えば「フランス嫌い」の感情が確実にある、ということです。
ミュンヘンの食をめぐる状況、アウグスブルクでの出来事、そんなこんなを考えあわせてみると、ミュンヘンでのイタリア食材&料理中心主義の背景には、こうした微妙な感情のわだかまりがあるのかもしれません。戦争の傷跡として。
きょうのお話は、ここまで。
面白いお話、出てこい。
もっと早く、もっとたくさん。
2011/4/3

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『アンティークシルバー物語』大原千晴
主婦の友社 定価 \2,100-
イラスト:宇野亞喜良、写真:澤崎信孝
ここには、18人の実在の人物たちの、様々な人生の断面が描かれています。この18人を通して、銀器と食卓の歴史を語る。とてもユニークな一冊です。
本書の大きな魅力は、宇野亞喜良さんの素晴らしいイラストレーションにあります。18枚の肖像画と表紙の帯そしてカトリーヌ・ド・メディシスの1564年の宴席をイメージとして描いて頂いたものが1枚で、計20枚。
私の書いた人物の物語を読んで、宇野亞喜良さんの絵を目にすると、そこに人物の息遣いが聞こえてくるほどです。銀器をとおして過ぎ去った世界に遊んでみる。ひとときの夢をお楽しみ下さい。

2009/11/23

■講座のご案内
2010年も、様々な場所で少しずつ異なるテーマでお話させて頂く機会があります。また、4月号から新たに
大修館書店発行の月刊『英語教育』での連載が2年目に入りました。欧州の食世界をさまざまな視点から読み解きます。ぜひ、ご一読を。
というわけで、エッセイもカルチャーでのお話も、
「ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷を、これまでにない視点から、探訪する。」が基本です。
歴史の不思議な糸で結ばれた、様々な出来事の連なりをたぐり寄せてみる。そんな連なりの中から、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さ。これについてお話してみたい。常にそう考えています。
詳しくは→こちらへ。
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