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不定期連載『銀のつぶやき』
第3回 「銀塊はリャマの背に揺られて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



地図

A:ポトシ銀山
B:アリカ港
C:パナマ地峡









 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西欧で「古い銀器」というと、美術館や博物館を別にすると、何といっても教会に、古い銀器が見られます。しかしながら、それとても、1500年代半ば以前の銀器に出会う機会は、めったにありません。西欧の中でも、早くから経済と文化の発達した、ヴェネツィアに代表されるイタリア諸都市でさえも、事情は同じことです。

一体何が言いたいのか。

ヨーロッパのほぼ全域で、十六世紀後半に入ると急に、それ以前に比べて多くの銀器が造られ始めます。しかし、それはなぜなのでしょうか。今回の「つぶやき」は、皆様と一緒に、そのヒントを探ってみたいと思います。

1500年代の中ごろのことです。南米を侵略しながら宝探しを続けていたスペインは、今のボリビア山中に、ある銀山を見つけ出します。これが後に、ヨーロッパの銀の世界を一変させるほどの量の銀を産出することになる、伝説のポトシ銀山です。

スペインは、このポトシ銀山と、更にはメキシコからの銀、それに他の南米諸地域からの金と銀を独り占めして、これをひたすら自国に運び続けます。このことが当時の西欧社会の経済に与えた影響は非常に大きなものがありました。単にスペインが金持ち国になったという程度では終わりません。大量に流入し続ける銀、これに大幅な人口増加という背景も加わって、1500年代中ごろから約百年近くにわたって、西欧全体がインフレーションにみまわれることになります。とりわけ穀物の価格が上昇したことが大問題でした。この一連の出来事を経済史の用語では「価格革命」と呼びます。革命的に物価体系が変化したという意味です。銀器の歴史をたどる過程で私は初めて、このことの意味を知りました。

スペイン経由の銀が大量に持ち込まれたことで、当時西欧社会の中心通貨であった銀の価格が暴落したわけで、今風に言えば、通貨である銀が大量に供給されたために、インフレーションになったというわけです。なんだか、近頃の日本政府と日銀、さらには銀行関係者の間のやりとりが頭に浮かびます。

先日、古い知人の商社マンが、ため息混じりに僕に言いました。「今の日本が超インフレになれば、ウチの不良債権問題も、一発で片付くんだけどな。」国より会社が大切なのか?けっこう真剣に、そんなことを考えている風でしたが、軽い冗談だと受け止めることにしましょう。

歴史の好きな人ならば、価格革命の話はご存知の方も多いでしょう。しかし、実際にどのようにして、重い銀塊を銀山から積み出して、それをはるかヨーロッパにまで運んだのか。その道筋を知っているという方は、そういらっしゃらないと思います。

そこできょうは、できるだけ具体的に、銀塊の辿った旅路について、お話してみたいと思います。皆さんに分りやすいように地図を加工して、話の間に入れておきました。それをご覧になりながら、お読みになってみてください。

「銀山」という言葉が象徴するように、銀鉱石が採掘されるのは「山の中」、と相場が決まっています。それも、ずいぶんと不便な場所であるのが普通です。ポトシ銀山は、その典型です。

この山は、1500年代の中頃から、スペインが採掘を本格化させた銀山で、世界の銀の歴史ばかりか経済構造そのものを塗り替えるほどに、大量の銀を産出しました。まさに「銀山の中の銀山」と呼ぶにふさわしい存在です。これがまた、突拍子もない場所に存在しています。今のボリビア、太平洋岸沿いを南北に貫くアンデス山脈の一角で、標高四千メートルという高地に位置します(地図1、地図2)。

富士山の頂上よりも遥かに高い位置にあるポトシ銀山の開発。電気もガスも電話も車も、いや、蒸気機関でさえも存在しない、何もない時代です。とにかく、人の手によって、過酷な労働と多大な犠牲を伴いながら、ポトシの銀山は開発されていきます。

採掘の困難はもちろんのことですが、掘り出した銀鉱石から銀を採取する精錬の過程がまた、大変でした。高地であるがゆえに気圧が低く、炉で高温を作り出すことにも苦労します。更に、大量に必要とされる水の確保など、問題山積でしたが、ここは「欲と道連れ」で、次々と困難を切り開いていきます。

そして、最後に残る難問が、出来上がった銀塊の輸送です。四千メートルの高地を出発点として、ズシリと重い銀塊を、一体どうやって運び出したのでしょうか。ところがちゃんと、いい方法がありました。

ここに登場するのが、リャマもしくはラマと呼ばれる、可愛い動物です。アルパカの親戚と言えば、むしろ通りがいいでしょうか。体調2メートル、体高1メートル強ほどで、首が長く、小さなラクダのような感じです。古くからアンデス山地で、荷役に利用されてきた動物で、ふさふさとした毛が昔から珍重されてきました。銀塊の輸送には、このリャマが使われました。


リャマ

ロバに比べても小さなリャマですから、運べる荷物の重量は限られています。せいぜい四十キロ弱。小さな子供ならいざしらず、人間を運ぶことはできません。しかも、一日に進むことができるのは、二十キロメートル程度だといいます。銀塊を載せた数頭のリャマに、予備のリャマを数頭、それに数人の人間が付く。更に、その人間のための食料と水、また、リャマのための最低限の飼料も必要だったに違いありません。となると、僅かな銀塊を運ぶためにも、ずいぶんな数のリャマの隊列が続いたはずで、港への道中には何箇所も、補給地点が必要だったことでしょう。

ポトシから太平洋沿岸にある積出港のアリカまでは、地図上の直線距離では420kmほどです。しかし、途中は五千メートル級の連なりが控える山道を行く道中です。そのことを考えると、実際の通行距離が、一体どれくらいになったものやら、ちょっと見当がつきかねます。少なくとも、二ヶ月近くかかる旅路であったことは間違いないでしょう。ポトシ銀山から産出される銀は、とにかく膨大な量でした。その搬出量から想像するならば、銀塊を背にしたリャマの行列が、細い山道を遥か下界の港町まで、切れ目もないほど延々と続いていたものと思われます。いわば、リャマのベルトコンベア。

地図
ポトシとアリカ港

   こうしてリャマの背に揺られながら銀塊は、積出港であるアリカの港に到着します。ここで銀塊を下ろしたリャマの隊列は、再び四千メートル上にあるポトシへと戻っていくわけですが、空荷で帰るわけではありません。こんどはアリカの港で、あれやこれやの荷物を背負わされました。なかなか楽はさせてもらえません。今度は何を背負わされたのか。そのうちお話しする機会があるでしょう。ここはこのまま、銀塊のゆくえを追うことに致しましょう。

リャマの背から下ろされた銀塊は、積出港のアリカで、こんどは船に積み込まれます。もちろん当時の船は帆船です。風を帆にはらんで、太平洋岸をパナマに向けて北上していきます。この沿岸は、下のアリカ港の絵にあるように、海岸近くまでアンデス高地の山並みが迫っています。船からの眺めはさぞ美しいことでしょう。いつの日にか行ってみたいものですね。

 

 

 

 

 


アリカ港

 

ところでパナマって、あのパナマ?そうです、運河で有名な、パナマ地峡の太平洋側の港です。アリカからパナマまで、帆船での旅路で約二ヶ月掛かったといいます。そして、パナマ港に陸揚げされた銀塊はしばらくの間、この港の倉庫で厳重に保管されました。

やがてスペイン本国からの護送船団が銀を運びにやってきます。船団はまず、カリブ海側カルタヘナ港(地図3のCARTAGENA)に到着します。ここは現在の国名では、コロンビアに属します。そして、この船団がカルタヘナに入港したという知らせを受けると、銀塊はパナマ港から地峡の反対側へと運ばれました。まだ、地峡を横断する運河(1914年完成)はもちろん、鉄道(1855年完成)もありません。僅か数十キロの距離ですが、ここでは、左のイラストのような感じで、ラバと自然の川を利用して、かなりの苦労を伴いながら、地峡を横断して行きました。

 

 





地図
パナマ港と カルタヘナ
(黒い横線部が陸地)


この地図は
海賊ドレーク船長の
主要な襲撃場所を示唆

地峡の反対側、すなわち大西洋(カリブ海)側では当初、ノンブレ・デ・ディオスという港が利用されていました。次の絵でお分かりの通りここは、港というよりも要塞と呼ぶほうがふさわしい景色です。パナマからの銀を運び出す中継点に過ぎず、それ以外の役割は、ほとんど果たさなかった場所だということが、この絵からもよくわかります。

 

 

 

 

 

 

右:図2
ノンブレ・デ・ディオス

 

 

 

これが1596年からは、同じパナマ地峡大西洋側の、より地峡中央部に近い場所にある天然の良港、ポルトベリョ(地図3では、ディオス=Diosの西(左)隣りのギザギザ部分に当ります。)に運ばれるようになります。ポルトベリョ(Porto Bello)といえば、聞き覚えがありませんか。そうです、あのロンドンのアンティークマーケットとして有名なポートベロー(Portobello)は、このポルトベリョにちなんで名前がつけられています。1739年に英国海軍のエドワード・ヴァーノン提督が、スペインからこの港を奪い取ることに成功したことを記念して、ロンドンの通りの名前に、その名を残すことになったのです。

 

 

 

 

 

 

図3:
銀塊の積出時の
ポルトベリョ港のにぎわい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 




護送船団はポルトベリョから、一端カルタヘナ港に戻ります。そこで十分に準備をしてから、カリブ海はバーミューダ海域を通過して、最終的に本国スペインへと帰っていきました。スペインとカリブを往復する、金銀という財宝を満載した護送船団、これを当時の人々はずばり、「宝船船団」と呼びました。

どうです、読んでいるだけでも気が遠くなるような、長くて困難な旅路だと思いませんか。しかし、これでめでたしめたしとは、いきません。問題はむしろ、カルタヘナ港を出港してからの、大海原の上にありました。バーミューダ・トライアングルの恐怖?当時この海域が危険だったのは、何も潮流や天候のせいばかりではありませんでした。

スペインの命といってもいい銀塊を満載した宝船船団です。そこらぢゅうで、海賊がこの船団を狙っていたのです。時は海賊の国イギリスを代表する英雄、キャプテン・ドレークやホーキンズ船長達が、カリブの海を股にかけての大活躍、という時代でありました。海賊たちに狙われたスペインの宝船船団の運命や、さていかに。

今日の紙芝居はここまでココマデ。この続きは「おおはら」で銀器を買った人だけにお話しますよ。ほら、このきれいなブライトカットのスプーンなど、一本如何ですか。お買い得ですよ。

銀器の歴史はこんな意外なエピソードが一杯です。そんな話をもっと聞いてみたいな、と思ったら、時に応じて銀器の講座が開かれています。どうぞ時々スケジュールをチェックしてみてください。


なお、ポトシ銀山について、より詳しくお知りになりたい方は、入手の容易なものとして、青木康征著『南米ポトシ銀山』中公新書1543(中央公論新社2000年7月発行)をご覧下さい。本稿の記述も、三割ほどを本書に拠っています。


さて次は、どんなお話を致しましょうか。
面白いお話出て来い!   

   2003/04/09