西欧で「古い銀器」というと、美術館や博物館を別にすると、何といっても教会に、古い銀器が見られます。しかしながら、それとても、1500年代半ば以前の銀器に出会う機会は、めったにありません。西欧の中でも、早くから経済と文化の発達した、ヴェネツィアに代表されるイタリア諸都市でさえも、事情は同じことです。
一体何が言いたいのか。
ヨーロッパのほぼ全域で、十六世紀後半に入ると急に、それ以前に比べて多くの銀器が造られ始めます。しかし、それはなぜなのでしょうか。今回の「つぶやき」は、皆様と一緒に、そのヒントを探ってみたいと思います。
1500年代の中ごろのことです。南米を侵略しながら宝探しを続けていたスペインは、今のボリビア山中に、ある銀山を見つけ出します。これが後に、ヨーロッパの銀の世界を一変させるほどの量の銀を産出することになる、伝説のポトシ銀山です。
スペインは、このポトシ銀山と、更にはメキシコからの銀、それに他の南米諸地域からの金と銀を独り占めして、これをひたすら自国に運び続けます。このことが当時の西欧社会の経済に与えた影響は非常に大きなものがありました。単にスペインが金持ち国になったという程度では終わりません。大量に流入し続ける銀、これに大幅な人口増加という背景も加わって、1500年代中ごろから約百年近くにわたって、西欧全体がインフレーションにみまわれることになります。とりわけ穀物の価格が上昇したことが大問題でした。この一連の出来事を経済史の用語では「価格革命」と呼びます。革命的に物価体系が変化したという意味です。銀器の歴史をたどる過程で私は初めて、このことの意味を知りました。
スペイン経由の銀が大量に持ち込まれたことで、当時西欧社会の中心通貨であった銀の価格が暴落したわけで、今風に言えば、通貨である銀が大量に供給されたために、インフレーションになったというわけです。なんだか、近頃の日本政府と日銀、さらには銀行関係者の間のやりとりが頭に浮かびます。
先日、古い知人の商社マンが、ため息混じりに僕に言いました。「今の日本が超インフレになれば、ウチの不良債権問題も、一発で片付くんだけどな。」国より会社が大切なのか?けっこう真剣に、そんなことを考えている風でしたが、軽い冗談だと受け止めることにしましょう。
歴史の好きな人ならば、価格革命の話はご存知の方も多いでしょう。しかし、実際にどのようにして、重い銀塊を銀山から積み出して、それをはるかヨーロッパにまで運んだのか。その道筋を知っているという方は、そういらっしゃらないと思います。
そこできょうは、できるだけ具体的に、銀塊の辿った旅路について、お話してみたいと思います。皆さんに分りやすいように地図を加工して、話の間に入れておきました。それをご覧になりながら、お読みになってみてください。
「銀山」という言葉が象徴するように、銀鉱石が採掘されるのは「山の中」、と相場が決まっています。それも、ずいぶんと不便な場所であるのが普通です。ポトシ銀山は、その典型です。
この山は、1500年代の中頃から、スペインが採掘を本格化させた銀山で、世界の銀の歴史ばかりか経済構造そのものを塗り替えるほどに、大量の銀を産出しました。まさに「銀山の中の銀山」と呼ぶにふさわしい存在です。これがまた、突拍子もない場所に存在しています。今のボリビア、太平洋岸沿いを南北に貫くアンデス山脈の一角で、標高四千メートルという高地に位置します(地図1、地図2)。
富士山の頂上よりも遥かに高い位置にあるポトシ銀山の開発。電気もガスも電話も車も、いや、蒸気機関でさえも存在しない、何もない時代です。とにかく、人の手によって、過酷な労働と多大な犠牲を伴いながら、ポトシの銀山は開発されていきます。
採掘の困難はもちろんのことですが、掘り出した銀鉱石から銀を採取する精錬の過程がまた、大変でした。高地であるがゆえに気圧が低く、炉で高温を作り出すことにも苦労します。更に、大量に必要とされる水の確保など、問題山積でしたが、ここは「欲と道連れ」で、次々と困難を切り開いていきます。
そして、最後に残る難問が、出来上がった銀塊の輸送です。四千メートルの高地を出発点として、ズシリと重い銀塊を、一体どうやって運び出したのでしょうか。ところがちゃんと、いい方法がありました。
ここに登場するのが、リャマもしくはラマと呼ばれる、可愛い動物です。アルパカの親戚と言えば、むしろ通りがいいでしょうか。体調2メートル、体高1メートル強ほどで、首が長く、小さなラクダのような感じです。古くからアンデス山地で、荷役に利用されてきた動物で、ふさふさとした毛が昔から珍重されてきました。銀塊の輸送には、このリャマが使われました。

リャマ
ロバに比べても小さなリャマですから、運べる荷物の重量は限られています。せいぜい四十キロ弱。小さな子供ならいざしらず、人間を運ぶことはできません。しかも、一日に進むことができるのは、二十キロメートル程度だといいます。銀塊を載せた数頭のリャマに、予備のリャマを数頭、それに数人の人間が付く。更に、その人間のための食料と水、また、リャマのための最低限の飼料も必要だったに違いありません。となると、僅かな銀塊を運ぶためにも、ずいぶんな数のリャマの隊列が続いたはずで、港への道中には何箇所も、補給地点が必要だったことでしょう。
ポトシから太平洋沿岸にある積出港のアリカまでは、地図上の直線距離では420kmほどです。しかし、途中は五千メートル級の連なりが控える山道を行く道中です。そのことを考えると、実際の通行距離が、一体どれくらいになったものやら、ちょっと見当がつきかねます。少なくとも、二ヶ月近くかかる旅路であったことは間違いないでしょう。ポトシ銀山から産出される銀は、とにかく膨大な量でした。その搬出量から想像するならば、銀塊を背にしたリャマの行列が、細い山道を遥か下界の港町まで、切れ目もないほど延々と続いていたものと思われます。いわば、リャマのベルトコンベア。
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