2005/02/28
(数少ない読者の皆様へ。今回の話は、●前回の続きです。関連しながらも、少し中身が違うので、思い切って、分けてみました。少しは読みやすくなったのではないかと思います。)
●世界を覆う「日本」のソフト的なるもの
とろで、「寿司」と並んで、ここ十年で深く静かに、気が付けば巨大な姿を現し始めている「日本」がある。それは何かといえば、アニメと劇画とゲームソフトだ。今、外から日本を眺めるとき、これが日本という国を象徴する、おそらく一番大きな要素となっている。
歌舞伎に相撲、華道に茶道といった伝統文化、そうしたものは、普通の人はまず、知らない。ソニーにホンダ、キャノンにパナソニック。これもちょっと前のイメージ。ニンテンドーにプレステ、というよりも、その中で動くイメージの群れ。その感覚。言葉では表せない、あの独特の、絵と音。場面が展開し、イメージが動く、そのすべてを構成する「感覚」。現代日本の生み出した、あの「感覚」が、深く静かに世界を覆いつつある。
アニメと劇画とゲームソフトは、当然ながら、子供たちへの浸透度が高い。日々、日本製のアニメをテレビで見、雑誌で読み、ゲームにはまる。そんな子供たちが、欧米にもアジアにも、たくさん出現し始めているわけで、その影響は既に、いろいろなところで出始めている気がする。
たとえば、アメリカや欧州の子供が描く絵の中に、明らかに日本のアニメの影響だと思われる、目の大きな女の子や男の子の絵が描かれているのを、何度か見たことがある。また、欧米制作のテレビアニメの絵の中に、日本の強い影響を見ることも、多くなった。あちらの子供向けの雑誌の中に、日本の劇画的な絵を見つけて驚くこともある。
そんな影響の下に育つ「あちらの子供達」は、ごく自然に、日本のアニメ的な絵を描いてしまうことになる。日本の子供と変わるところはない。そして、そんな子供たちに向ける商品もまた、日本製かどうかとは関係無しに、日本的なデザインで送り出されることになる。あちらの子供達がそれを求めているのだから、当然だ。
パフィがアメリカで受けるのも、こうした土壌が既に、知らない間に出来上がっていたからではないだろうか。
というわけで、パリやロンドン、ダラスのスーパーやデパートの子供向け商品の棚に、日本感覚のパッケージを見ることが珍しくない、という状況が生まれる。しかしこれは、「日本製品のコピー」などという問題とは本質的に、話が違う。
日本発注による中国製はもちろんのこと、欧米発注&デザインによるメキシコ製やバングラデシュ製の「日本アニメ劇画風グッズ」という、これはこれで独自の個性を持った世界が生まれ始めているという意味だ。
要するに、「日本抜き」の「日本風」なのであって、これは、ロンドンの「回る寿司」と同じことだし、敢えて言えば、葛飾柴又の「シチリア風ピザ」と同じことだ。「コピー」などという単純なことよりもずっと、事態は深く進行している、ということになる。
私は日本人だから、そうした様々な状況を海外で見ながら、「面白いなあ」と楽しんでいる。ひょっとすると、幕末に欧州で起きた、日本デザイン大注目ブーム以来のことではないか、などと思ったりもする。
●「外人さん」の視点の鋭さ
当然、あちらの親たちの中には、「子供がこんなに夢中になる、アニメ的なるゲーム的なるものを生み出す日本とは、いったい何なのか」という形で、文化的な背景に興味を抱く人々も出はじめている。「オタク文化の研究者」などという学者さんを別にすれば、Peter Carey (ピーター・ケアリーと読むべきか)という作家などは、その新しい代表例かもしれない。
日本で言えば芥川賞作家クラスの英国の作家で、この人は、息子が夢中になる日本を知りたくて、子供と共に日本にやってきて、あちこちアニメゲーム文化の源を訪ね歩き、その旅路を小説風ノンフィクションにまとめた。 "Wrong About Japan---A Father's Journey With His Son"(米国版の版元:Alfred A Knopf) というのが本のタイトルで、この本の書評が、英米の新聞雑誌に、かなり大きく取り上げられているのを先月、幾つか目にした。
要するに、外から日本を眺めてみれば、今の日本は、アニメ的なる、漫画的なる、劇画的なる表象の国、というイメージになりつつある。そして、たまに、そのアニメの国から、相撲や歌舞伎がやってくる。これとてもまた、アニメ的なる、漫画的なる、そしてゲーム的なるものと、同じ視点で観察されている。浮世絵文化との共通点を指摘する、ガイジンの学者も少なくない。
我々日本人から見れば、「相撲や歌舞伎と、アニメ的なるものとは、全く別」、と考えがちだ。だが、実は深いところで、同じ根っこでつながっているのではないだろうか。そういうことは、むしろ外から見た方が、よく事態が見通せる場合がある。
「外人さんに解るはずないよねえ。日本文化の本質がさ。」などというのは、大いなる幻想で、むしろ、「外人だからこそ解る」と考えた方が正しい場合も大いにある、という気がする。
例えば、ユダヤ系の学者に優れた社会分析の研究が多いのは、彼らがどんな場所(社会)で暮らしていても、その社会の異邦人であるからだ。常に違和感があるからこそ、違いを見極めようという気になるのだ。ぬるま湯社会にどっぷり漬かった人間に、その社会の本質など見えるはずがない。
似たようなことは、他にもある。英国で旧植民地とりわけ、インド・パキスタン出身移民の二代目三代目を中心に、著名な作家が何人も登場していることも、同じ背景だと感じる。そして、これを言い出せば、フランス語圏カリブ出身ソルボンヌ卒業でパリ在住の黒人女性作家などというのも同様なわけで、要するに、社会のマイノリティ(少数派)であることが、その社会を見る感覚を、いやがおうでも鋭くする、という部分があることは間違いなさそうだ。
ちょっと話が固くなってきた。悪い癖が出はじめたようだから、ここらで一息入れた方がよさそうだ。
さて、アニメゲーム劇画感覚を世界に浸透させた日本が、次に向かうところは、どこか。それがわかれば、明日のビル・ゲーツ、いや、ホリエモンくらいには、なれそうだ。
さて次のお話は。面白いお話、出て来い!
もっと早く、もっとたくさん。
■講座でいろいろ、お話しています。
今年は五月以降、ヨーロッパの食卓の歴史的な変遷について、これまでにない視点から、あれこれお話をする機会が実現しそうです。銀器という枠を越えて、食卓という世界を通して見えてくる、人々の社会と暮らしの面白さについて、お話ししたいと考えています。
2005/02/28

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